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いのちへの感度

哀しみと後悔のなかから見えてくることがある。

小さいころから「毎朝、背にまたがって登校できる犬を飼いたい」という土台無茶な望みを持って育った私は、10代も半ばを過ぎて、ついに家で犬を飼うことになったとき、まさに飛んで喜んだ。

ペットショップに行くと、産まれたばかりの子犬がケージにたくさんいた。兄弟犬に踏みつけられているようなちょっと頼りない犬になぜか心が動き、「あれがいいんじゃない?」と言ってみる。後日、その子犬が我が家に来た。乗れはしないが、またがれるくらいには大きくなる犬種だった。

しかし来てみると、家でも外でも吠えに吠えるし、言うことも聞かず、現実はまるで生易しくなかった。イライラが絶えなかった。

とくに散歩が面倒くさく、犬が勝手に進んでいくのを抑えられていないさまが外目に明らかなのが恥ずかしかった。自分でも犬に馬鹿にされていると思った。

結局、私がしたことは、力で犬を押さえつけることだった。トレーナーもそのようにしていたし、何よりそれ以外の方法が分からなかった。

犬をしかっているあいだ、犬は震えていた。当時、それに気付いていなかったわけではない。気付いて、しかしそれが「ちゃんと」しかれている証拠と思ったのだ。

次第に犬は言うことを聞くようになった。散歩中、犬を褒められる機会も増え、子ども心に私は得意げだった。もう犬に振り回されていない。

10年ほど経って、犬は突如判明した口腔ガンが原因で見る間に衰弱し、亡くなった。週に何度も動物病院に連れていき、ほんの少しの回復も天啓とすら思えた日々のはてに亡くなったとき、本当に哀しかった。

しかし、その哀しさのなかで、犬の生きていたことの尊さを思うなかでようやく気付いたのは、かつて自分がした取り返しのつかない愚かさだった。

「しつけ」という美辞を隠れ蓑に自らがしたこと、あれを虐待(マルトリートメント)と呼ばず、何て呼ぼう。今ひとたび奇跡が起きて、この子がよみがえったなら、絶対にしまいはずのことを。

✳︎

虐待、あるいはマルトリートメント(不適切な関わり)とは、いのちへの感度が失われたとき、誰よりも当人にその不適切さが隠されてしまうかたちで、半ば必然のように起きてしまうものだと、私はいま思います。

それゆえ虐待防止とは、どこかで起きている問題を発見しようと努める以前に、この私はいのちへの感度を失わずに生きているかを、いま一度、自問することが欠かせないはずです。

多くの人が、自らの、そして目の前のいのちに向き合えないでいる社会において、児童虐待という問題だけが仕組みによって、システマティックに解決するなんてことはありえません。

私にとってまさにそうであるように、毎年訪れる今月11月の「児童虐待防止月間」が、ひとりでも多くの方にとってそのような機会であること願いつつ、何より私自身の自戒のために、この文章を残します。

認定NPO法人Living in Peace
共同代表 中里晋三

本コラムは、「Living in Peace こどもプロジェクト ニュースレター 第119号からの転載になります

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