『ヨハネの黙示録』現時点での私の訴求ポイント:構成と内容(12)花嫁としての新しいエルサレム~贖い・救いの完成(21-22章)

今回は、最後の2つの対照的な幻(世の支配/バビロンの裁きと新天新地の到来)の2つ目、幕間を挟み、黙示録の最終の幻について。最後の戦いに続く一連の幻についての一考察を! 最後、駆け足ですが・・・ いつか時を改めて、再度練り直したいと思います。 

  • 最終の災いをもたらす7人の御使いが最後に掲示する幻は、大バビロンの裁きではなく、新しいエルサレムの到来である。これこそが、サタンに翻弄され続けた世の統治を覆すものであり(19:1-10)、キリストの再臨による最後の戦いと裁きの目的である(21:1-8)。また、2-3章で約束された勝利、また小羊がその血により得た勝利(5:5-6)、さらに人類が諸々の戦いを経て得るべき勝利(6:1; 21:7)によって迎えられる神の領域である。ただし、21:9以降の描写では、これまでの戦いや苦難を想起させる描写はほぼなくなり、圧倒的な神の栄光、初めの創造の新たな継続に焦点が当てられる。そして、ここに、預言者らが見た最後の展望がついに実現する(イザヤ65-66章; エゼキエル40-48章)。

  • 新しい都エルサレムは、小羊の妻である花嫁として描かれる(21:9; cf. 21:2; 19:7)。その象徴的な姿は、大淫婦に象徴される大バビロン(人の都)とは対照的である。後者は深淵から担がれ、操られるのに対し、前者は天から発し、地を光り輝かせる。新しいエルサレムの特徴は、何よりもまず、神の栄光である(21:10-11, 23)。神である主と小羊とが神殿であり、その臨在で都が充満しているが故に、都には神殿として特別に隔てられた建物はもはやない(21:22)。そもそも幕屋、また神殿は、地において、神が罪ある人々の中に宿るために備えられたものであった。人が罪を引き負ってからというもの、人が神の臨在、聖性に触れることは、死を意味した。そこで、神が人と共にあるためには、神は特別な空間に宿る他なかった。それが幕屋であり、神殿であった(※下記参照)。しかし、今や、小羊がその血をもって罪を贖われたが故に、人は神の臨在に留まり、神と共に住まうことができる。(小羊なるイエス・キリストは地にある幕屋として、その人のうちに神との出会いを提供するべく来られた(ヨハネ1:14)。キリストはその身に罪を負われるからこそ、それが可能であった。)(ちなみに、天の御国は、神を離れて別の場、領域としてあるのではない。まさに神の臨在の満ちる場が天国である。換言すると、神の臨在に耐えられない、飽き足らない者は、天国に入ることはない――都の門が閉じることがないにも関わらず、都に入らない人々がいる――ことも記されている[21:25-27]。)

  • 上記※について: 神との特別な出会いについては、例えば、アブラハムと神の顕現(創世記15章、特に12節)、ヤコブと神との出会い(創世記 32:30)、モーセの神との出会い(出エジプト3:6; 33:11, 20)。また、イスラエルにおける聖性の規定(レビ記 11:44)。預言者イザヤと神の顕現(イザヤ6:5)など。 

  • 新しいエルサレムが12の門(イスラエル12部族)と12の土台(小羊の12使徒)で構成されているということは慰めでもある。一部を除いて、知ることのない部族、使徒たちの名も等しく用いられている。世における名の大小によらず、ただ神の選びと招き、召しによって、この都はある!

  • 新しい都は世界全体を覆う。その大きさ、1万2千スタディオン(21:16)は、当時のヘレニズム世界ないしローマ帝国と同じ大きさとしてヨハネに提示されているのである。(今であれば、地球の大きさとして描かれるであろうか。)さらに、その形状が立方体で記されているいうことは、都全体が神と人とが出会うために備えられた至聖所、神の臨在の場に相当することを示唆する(1列王記6:20)。

  • 新しいエルサレムは、神の臨在の充満する場であり、すべてにおいて充足している。他に依拠するものはない。よって、諸国の民も地の王たちも、それに応じて都にやって来る(21:21)。サタンに担がれた大バビロンでは、地の王たちもその支配下に置かれ、取り引きないし駆け引きの関係にあったこととは雲泥の差である。また、その参入は、門が閉じることがないことから(21:25)、自発的なものであると言える(Cf. イザヤ60:11)。(逆に、21:27が示唆するように、門が開かれているのにも関わらず、入ることを拒む人々も存在する。「火の池」に投げ込まれた者たちも含まれるかもしれないが、その策略が及ぶことは決してない。)

  • 同時に、新しい都には、人が罪によって追放され、疎外されてしまったエデンの園の回復、さらにはその発展がみられる(22:1-5)

  • まず、エデンの園にはなかった都が、園と共存している。むしろ、神と小羊の玉座は都にあるという(22:3)。聖書を通して、都は罪の結果、呪いの温床として描かれてきた。まず、創世記で定住を始めたのはレメクの子である(創世記4:20)。殺人により土地に呪いを招いたカインの子孫で、その罪が極まるレメクの子である。そして、ノアの洪水の後には、バベルの町での神に挑む試みが散らされた(創世記11:1-9)。そして、神の民の祖となるアブラハムは、町を離れ、旅人また寄留者としての歩みへと召された(創世記12章)。その後も、神の民は、大きな都市との緊張関係が続く。町また都は、罪の結果として誕生、また神から疎外されたところで発展し、神に敵対するかのように描写されている。しかし、新しい都エルサレムでは、都ではあるものの、そこにはもはや呪いはない(22:3)。祝福をとどめるものはないというのである。つまり、新天新地は単なる原点回帰ではなく、発展的成就――祝福をもってなされた創造、その最後に位置づけられた本来の人の支配の業が贖われ、回復され、永続的に満たされていく場――ということになる(22:5)。

  • いのちの水の川は、園を潤すのみならず、御座から出て都の真中を流れる(22:1-2; cf. 創世記2章、エゼキエル47:1-12)。神と小羊によるきよめの水が常に注がれ、渇きを満たす(22:17)。また、いのちの木は、一本だけでなく複数、豊かに認められる。そもそも、いのちの木は、罪ある人がその実を取って食べ、永遠に生きることがないように隔離された(創世記3:22-24)。しかし、ここでは12という数に象徴される通り、豊かに、また途切れることなく実り、民を満たす(22:2)。もはや飢え渇きはなく、永遠の充足、充満がある。(エデンの園では、いのちの木と対であり、人の罪のきっかけとなった善悪の知識の木はもはやない。キリストに従い、戦いを通して悪を克服し、悪を前にしても善をのみ、ただキリストを志向する者たちには、善悪の知識の木はもはや必要ない!)さらに、いのちの木の葉は諸国の民の病を癒すとある(22:2; cf. エゼキエル47:12)。新しい都には、充足、成長や発展のみならず、癒しもまたとこしえに備えられている。諸国民、部族の中から、また都市の中から贖われた民たちには、どんな病に侵されていても、傷が深くとも、恒久的な癒しが約束されているのである。

  • そのような都と園をあわせもった神と小羊の栄光の光の中で(究極のガーデンシティで!?)、民は礼拝を捧げ、世々限りなく支配、すなわち、主の御業に参与する(22:3-5)。まさに、創世記1章の召し、祝福をもって、地を満たすことを、発展的に成就していくのである! ここに、著者ヨハネが宛てた7つの教会、そしてそれらを介して同じ御霊にあるすべての教会に約束された勝利の賜物がある。そして、これを世にあって先取りすべく、今、教会(キリスト者)は、天で捧げられている礼拝に呼応して、全被造世界./被造物へと恒久的に拡がる礼拝を、地において捧げ続けているのである。

<最後に・・・>

  • 幻を受けたヨハネは、幻を見せた天使を礼拝しようとした。私たちも、神ご自身よりも、神の啓示、啓示の内容、また啓示する媒体(天使であれ、指導者であれ)にとらわれてしまいがちではないだろうか。しかし、神ご自身と小羊なるキリストの礼拝こそが、終末の戦いに勝利する秘訣であり、預言、証しの前提となる。どんなに素晴らしい幻、天の啓示を見せるものであっても、礼拝の対象として混同してはならない。(いわんや、世に限定されたしるしを提示するものを拝むなど、どんな利得をもたらすものであっても、もってのほかである。)そして、預言、また証しのメッセージの中心も、究極的には「神を礼拝せよ」に尽きる。その礼拝を通して、「わたしはすぐに来る」というキリストの再臨の時が近いのを知り(22:7, 12, 20; also 22:6-7, 10//1:3)、その成就を「来たりませ」と待ち望む(22:16, 20)。礼拝は、まさに主が臨まれ、私たちが主を迎え/迎えられるる場、また、すでに天で繰り広げられている現実に、地において参与する場である。

  • ヨハネが教会に宛てた黙示録は、教会(キリスト者)が、天の視座より終末の厳しい現実を見据え、その中に置かれた自らの戦い、召し、勝利の約束を受けとめるように記されている。そこには、聖書のあらゆる預言の成就が関連づけられ、見出される。従って、この預言の書にないもの追加したり、その文脈から抽出したりして、違う教えを導き出すことは、今、私たちの目の前にも展開されている終末の戦いへの備えを見損なうことにもなり得る。時代が厳しさを増すように思われる中で、黙示録を通して提示される警告、奨励、そして礼拝への招きを、私たち自身への預言として受けとめ、主にある勝利の約束を受け継ぐことができれば! 

と、この幸いをどうやったら伝えられるのだろう、伝わるように記せるだろうと考えあぐねつつ、一旦最後までポイントとして挙げてみました。これから、適宜、修正(ひょっとしたら抜本的な改訂?)していきたいと思います。

≪修正・追加メモ≫
*2022/6/3 「てにをは」等の修正、一部太字に変更、一部段落・体裁変更
*2022/6/10 タイトル微修正

 


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