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特別性と罪悪感の関係(4/5) 〜「特別な関係」から「神聖な関係」へ〜

特別性と罪悪感の関係(1/5)〜特別であることの魅力とその危険性〜
特別性と罪悪感の関係(2/5)〜攻撃と防衛のサイクル〜
特別性と罪悪感の関係(3/5) 〜「特別な憎悪」と「特別な愛」〜

「特別な関係」から「神聖な関係」へ

さてここまで、あなたの心を罪悪感を閉じ込めておくための一つの巨大な箱として語ってきたわけですが、ギリシャ神話にはこのことを示す物語があります。

それが「パンドラの箱」と言われるものです。

この物語の由来は、ギリシャの詩人ヘシオドスの「仕事と日」に出てくる話にあります。

太古の昔人間たちは、神、プロメテウスによって火を使うことを教えられました。

これによって人間たちの暮らしは豊かになりましたが、同時に火を用いて争いをするようにもなりました。

そこで全能の神、ゼウスは、人間たちを懲らしめるために、パンドラ(パンドーラ)という女性に箱(本来は壺)を持たせて、人間界へと送り込みます。

絶対に開けてはいけないと言われていたその箱を、好奇心にかられてつい開けてしまう彼女。

すると、中から疫病、犯罪、悲しみなど、ありとあらゆる災いが飛び出してきました。

慌てたパンドラが箱を閉めた結果、箱の中には「希望」だけが残されたということです。

昨年放送が終わり、各所で話題となったフジテレビ系、カンテレ制作のドラマ「エルピス」がまさにそういった内容でした。

エルピス ー希望、あるいは災いー

―エルピス(Elpis)とは?

古代ギリシャ神話で、中からさまざまな災厄が飛び出したと伝えられる「パンドラの箱(壺)」に唯一残されていたものとされ、良きことの予測として【希望】、悪しきことや災いの予測として【予兆・予見】とも訳される言葉。

スキャンダルによってエースの座から転落したアナウンサー・浅川恵那(長澤まさみ)と彼女に共鳴した仲間たちが、犯人とされた男の死刑が確定した、10代の女性が連続して殺害された事件の冤罪疑惑を追う中で、一度は失った“自分の価値”を取り戻していく姿を描いていく。

実在する事件に着想を得た“冤罪”という重厚な題材を扱いながらも、リアリティーに富んだコミカルな会話劇、スリリングな展開と演出で見る者の感情を大きく揺さぶる、全く新しい社会派エンターテインメント!

真相に迫っていく過程で登場人物たちはさまざまな「希望」を見出すが、自身やその周囲、所属する組織に対し、痛みや破綻といった「災い」も降りかかる。はたして、彼らがパンドラの箱を開けたことでもたらされる混沌の先に残されているのは、希望か、それとも災いか――

ドラマでは、実際にあった冤罪事件を元に脚本が描かれており、事件を追うにつれて巨大な組織の力に何度も打ちのめされます。

その度に、怒りや悲しみ、また恐れや絶望を味わいますが、ドラマの主人公たちも、また神ゼウスから箱を受け取ったパンドラもそれが自分の中にある罪悪感であることには気付いていません。

この世界では、自分の罪悪感を投影して他者や世界の出来事を裁いたり正すことに躍起になりますが、それは常に自分に向けられています。

なぜ彼らがそのようにするのかと言えば、深いところで罪を信じているからです。

そして、信じているものは世界に投影されるので、その罪の意識は世界に様々な苦難や惨劇を生み出します。

しかし、世界や他者に罪(問題や間違い)を見た上で、それを赦す(取り消す)ことができる人は誰もいません。

赦し(取り消し)とは、世界や他者に罪(問題や間違い)がないからこそ為せるのです。

罪のある場所は外の世界ではなく、あなたのパンドラの箱の中であり、冤罪を解決すべき場所は、常にあなたの心です。

そしてそれは、あなたが神から分離したと思ったその瞬間にすぐさま神によって取り消されています。

ですから、ドラマの主人公たちによる冤罪事件を立証したいという願いは、すでに神によって叶えられています。

あなたは一度も神から離れたことはないし、今でも神と一つです。

それは完全に冤罪であるが故に、あなたには罪はなく疑われる必要も誰かに裁かれる必要もありません。

しかし、神によってすでに罪が訂正されたにもかかわらず、あなたには未だに罪があると信じているその想念によって世界に罪の象徴としてのあらゆる苦しみが沸き起こっています。

ですから、パンドラの箱の中に入っていた疫病や犯罪、また悲しみなどのありとあらゆる災いといったものが、神から分離したことを信じたことによるあなたの罪悪感が、この世界に映し出され形となって表現されたものに過ぎないのです。

箱には「希望」、つまりこの世界から目醒めるための脱出口が取り残されたままになっています。

箱の中に取り残された希望とは、神による救済であり、神の愛です。

しかし、自我はその上に罪悪感という恐れのベールを被せて、あなたがこれに近づかないようにします。

たとえばあなたが、子供に見つかってはまずいものを隠す場合に最も効果的な場所となるのは、その子供が最も嫌がり恐れている場所や物の下に隠すことです。

そうすれば、その子供が決してそこには近づくことはありません。

自我がしていることはまさにこういうことで、この自我による巧妙な作戦は今でも完璧に機能しています。

あなたは、苦しみの世界から解放される出口がまさか痛みや悲しみや恐れを超えた先にあるとは今も信じられません。

ですが、その方法は神の声を代弁する聖霊によって、今あなたに「赦し」として授けられています。

しかし、自我はそんな辛い思い(罪悪感を直視すること)をしなくても大丈夫だと言って、あなたに優しく語りかけます。

自我の目論見は、あなたをこの世界のあらゆるものとの特別な関係を築かせることで延々と牢獄に閉じ込めておくことはこれまでに何度も述べてきました。

それは、真のゴール(神の救済/真理/愛)と反対の方向を指し示し、あなたを神から遠ざけ偶像(肉体)の方を崇拝すべきだと忠告しますが、それは結局のところ大きな代償を伴います。

特別な関係を見るにあたっては、まず、それが多大な苦痛を伴うものであることを、よく理解する必要がある。不安感、絶望感、罪悪感、攻撃などのすべてが、そうした関係の中に入り込み、時折、それらが消滅したように見える時期が訪れる。このすべてが、ありのままに理解されなければならない。どのような形をとるにせよ、特別な関係は常に、相手に罪悪感を抱かせるために自己に対して為される攻撃である。これについてはすでに述べてきたが、実際に試みられていることについては、まだ触れていない側面がいくつかある。ごく簡単に言えば、相手に罪悪感を抱かせようとする試みは、常に神に対して為されている。なぜなら、自我は、一なる子が無防備のまま攻撃される状態に放置されている罪を負うべきは神であり、神のみであると、あなたに思わせようとするからである。特別な愛の関係は、あなたを天国から遠ざけておくための自我の主要な武器である。それは武器のようには見えないが、自分がどのようにそれに価値を置いており、なぜそうするのかをよく考えてみるなら、あなたはその正体が何かを理解するだろう。(T-16.5:1)

奇跡講座/中央アート出版社

仏教では、この罪悪感を閉じ込めておく巨大な箱を、阿頼耶識あらやしきという言葉で示しています。

阿頼耶識とは唯識思想ゆいしきしそうの中で用いられる心の一つのことです。

そして、この唯識思想の大家は古代インド仏教瑜伽行唯識学派ゆがぎょうゆいしきがくはの僧である「世親せしん」になります。

世親はサンスクリット名である「ヴァスバンドゥ」の訳名であり、それより前には「天親てんじん」と訳されています。

唯識思想を大成し、後の仏教において大きな潮流となりました。

また、多くの重要な著作を著し、地論宗じろんしゅう摂論宗しょうろんしゅう法相宗ほっそうしゅう浄土教じょうどきょうをはじめ、東アジア仏教の形成に大きな影響を与えました。

浄土真宗じょうどしんしゅうでは七高僧の第二祖とされ「天親菩薩てんじんぼさつ」と尊称されています。

唯識とは個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、ただ、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、二層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。

ウィキペディア(Wikipedia)

識が意味しているのは「心」です。

要するに、あなたの心は眼識げんしき(視覚)・耳識にしき(聴覚)・鼻識びしき(嗅覚)・舌識ぜつしき(味覚)・身識しんしき(触覚)という「前五識」と、「意識」(自覚的意識)、その下に末那識まなしきと呼ばれる潜在意識(寝てもさめても自分に執着し続ける心、熟睡中は意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し自己に執着し続ける)と、さらにその下に阿頼耶識あらやしきという根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用してあなたが「世界」であると思っているものも生み出しているのです。

あらゆる諸存在、つまり世界のあらゆるものが、自我と一体となった個人が作り出した識(心/間違った思考体系による創造)でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的存在ではありません。

それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去へと消え去ってしまいます。

すなわち、それら諸存在である「色」は「空」であり、実体の無いものなのです。

そして、その実体の無いものである「空」が、諸存在の「色」を生じさせているのです。

これがいわゆる「色即是空 空即是色」と言われるものです。

阿頼耶識をもう少し詳解すると、阿頼耶あらやとはサンスクリット語のアーラヤを音写したもので、住居・場所を意味し、その場に一切諸法を生ずる種子しゅうじ(あらゆる行為と思考の結果)を内蔵していることから「蔵識ぞうしき」とも訳されます。

その人の過去の行為である心で思ったことや口で言ったこと、さらには、体で行ったことすべてを含むものが、蔵のように蓄積したものということです。

ちなみに、ヒマラヤ山とは雪を意味する「ヒマ」と、蔵を意味する「アーラヤ」が合わさった言葉です。

つまり、雪が巨大な蔵のように積み上がったもの(ヒマ+アーラヤ)でヒマラヤ山なのです。

このように、阿頼耶識もあなたの罪悪感の全てを収納する巨大な箱を意味しているのです。

大乗仏教の考え方の基礎は、この世界のすべての物事は縁起、つまり関係性の上でかろうじて現象しているものと考えます。

唯識説はその説を補完して、その現象を人が認識しているだけであり、心の外に事物的存在はないと考えます。

これを「唯識無境」(境は心の外の世界)または、唯識所変の境(外界の物事は識によって変えられる)といいます。

また一人ひとりの人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識しています。

これを、人人唯識にんにんゆいしきといいます。

他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子(倶有ゆう種子しゅうじ)が存在するからであると唯識では考えます。

唯識思想は、この世界はただ識、表象もしくは心のもつイメージに過ぎないと主張します。

外界の存在は実は存在しておらず、存在しているかのごとく現われ出ているに過ぎないのです。

そして、その外界という見かけ上の世界が存在するように思える原因は、神の子が神から分離したと信じたことによる罪悪感であることを忘れてはなりません。

では、テーマを特別性に戻して、「特別な関係」と「神聖な関係」についての解説に移ります。

「特別な関係」と「神聖な関係」には非常に重要な特性があります。

それは、あなたがこの二つのうちのどちらの関係に関わっているのかを常に露見させてしまう決定的証拠となるものです。

それは、あなたはいつでも第三者に対する自分の態度によって、この二つのケースを見分けることができるというものです。

もしあなたが「特別な関係」に関わっているのならば、その関係は排他的なものです。

その中には、別の誰かが入り込む余地はありません。

自我が実際にはどう機能しているかを認識しているならこの理由は明白です。

あなたが他者をあなたの救済者にしており、他者があなたの罪悪感からあなたを救ってくれるというのであれば、あなたに対する他者の愛や、他者があなたに向ける関心が、あなたが隠したままにしておこうとしているこの罪悪感からあなたを救ってくれるということになります。

しかし、他者があなた以外のものに関心を抱くようになったならそれが別の人であれ、別の活動であれ 他者は100パーセントの関心をあなたに与えてはくれません。

あなたが関心や注意の対象を別の物や別の人に向け始めるとき、その関心と注意の移行の度合いに反比例して、あなたが他者から受け取るものがそれだけ少なくなります。

つまり、100パーセント得られないならば、あなたの箱の蓋がゆるんで開いてくるということです。

そして、それがあらゆる嫉妬の原因です。

人が嫉妬する理由は、自分の特別な必要が本来満たされるべき方法ではもはや満たされなくなると感じるからです。

ですから、もし他者があなたに加えて他の誰かのことも愛しているのだとしたら、あなたが得られる愛が減るという意味になります。

自我にとっては、愛とは定量的なものなのです。

世間に行きわたる分量には限りがあるので、もしあなたがこの人を愛するなら、あの人のことは同じ分だけ愛することはできない、ということになります。

聖霊にとっては、愛とは質の問題であって、すべての人々を包み込むものです。

けれどもこれは、あなたがすべての人々を同じように愛するべきだという意味ではありません。

この世界においては、それは不可能です。

それではそれが意味しているのはどういうことかと言えば、 愛の源が同じだということです。

愛そのものは同じですが、その表現手段は人それぞれに異なるという意味です。

あなたは自分の両親のことを、他の誰かの両親よりももっと愛すでしょう。

けれどもそれは、質においてではなく量においてのことです。

基本的に言って愛は同じものですが、この世界では明らかに異なった形で表現されます。

あなたが自分の両親を愛したからといって、それにより、あなたが他の人の両親をより少なく愛するということにはなりませんし、あなたの両親の方が良い人間だということにもなりません。

それが意味していることは、あなたの両親は、あなたが選んだ人々だということだけです。

彼らとの関わりにおいて、あなたは赦しを学び、それによってあなたが神の愛を思い出すことができるようになるということです。

つまり、あなたが誰かとの間に、他の人々に対するときよりも深い関わりをもったとしても、あなたがそれについて罪悪感を感じたりしなくていいという意味です。

このことの明確な実例が、福音書の中にもあります。

イエスは弟子たちの中でも特定の弟子たちとずっと親しかったし、他の信者たちよりも、彼の弟子たちと親しくしていました。

このことは、彼が他の人々をより少なく愛したという意味ではありません。

ただ同じ愛が、 ある人々に対しては、他の人々に対するときよりも深く親密に表現されていたということです。

「神聖な関係」というのは、一人の人を愛するにあたって、あなたは他の誰をもそこから除外していないという意味です。

つまり、愛することが誰かを犠牲にして為されているのではないということです。

「特別な愛」は常に、誰かの犠牲の上に成り立っています。

それは常に、比較による愛であり、そこでは特定の人々が他の人々に比べられています。

ある人々には欠点がある、ある人々は好ましい、などと見なされます。

「神聖な関係」を通してこの世界に表現される愛は、そういうものではありません。

あなたが特定のレッスンを学び、教えることができるように、ある特定の人々があなたに授けられていると同時に、あなた自身によって選択されているとあなたは認識します。

けれども、あなたはその人を他の人々よりも優るとか劣るとかいった存在にしてしまうことはありません。

もう一度言いますが、そのように他の人々を除外する度合によって、何らかの関わりが「神聖な関係」ではなくて「特別な関係」となっているかどうかを見分けることができるのです。

特別な愛の関係は自我が最も自慢とする贈り物であり、自ら進んで罪悪感を放棄するつもりのない者たちにとってきわめて魅力あるものである。自我の「力動論」はここにおいて最も明確である。なぜなら、こうした関係を主軸とした空想はこの贈り物の魅力を頼みとしているので、多くの場合かなりあからさまだからである。ここでは通常、そうした空想は容認できる無難なものであり、自然でさえあると判断される。愛すると同時に憎むということが、奇異なことだとは誰も思わない。憎むことは罪だと信じている者たちでさえも、ただ罪悪感を感じるだけで、それを正そうとはしない。これが分離の「自然な」状態であり、それがまったく自然ではないと学ぶ者たちのほうこそ不自然に見える。なぜなら、天国に対立すべく作り出されたこの世界は、まさに天国の反対であり、ここではすべてのものが真実とは正反対の方向を向いているからである。愛の意味が知られている天国においては、愛は融合と同じものである。愛の代わりに愛の幻想が受け入れられているこの世界では、愛であると知覚されているのは、分離や除外である。(T-16.5:3)

奇跡講座/中央アート出版社


特別性と罪悪感の関係(5/5)〜「自我の救済計画」と「神の救済計画」〜へ続く


あなたはもう一人ではありません。

なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。

神の子にはどんな苦しみもあり得ません。

そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。

〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜 
リンプ


参考書籍


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