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よしかずの後ろ姿

小学4年に上がった春、「よしかず」と同じクラスになった。

4年生は4クラスというそれほど大きな学校ではなかったにもかかわらず、それまでよしかずのことを知らなかったということは、そのタイミングで転校してきたのかもしれない。

よしかずの左手には親指しかなかった。
親指以外の指4本だけでなく、手のひらもない。通常、手相のある部分がないのだ。手首の小指側から肘にかけても何十針もの傷があって、その部分は腕が細くなっていたが、その細さがあまり目立たないほど痩せていた。

新学期が始まってしばらく経っても、クラスメイトはみんなよしかずとは少し距離を置いた。どう対応していいかわからなかったこともあるのかもしれない。

地方の少し閉鎖的な土地柄もあり、小学校に上がる年にこの地域のいわゆる新興住宅地に引っ越した私も、みんなと仲良くはしていたものの、どこか他所ものである感じは自分の中でなかなか抜けなかった。
子どもよりも、周りの大人たちの雰囲気がそうさせていたように思う。

家の方面が一緒だったことから、よしかずは私たち女子グループと一緒に下校するようになった。学校から2キロ近くの道のりを毎日歩いて帰るうちに、よしかずは普通の友だちになった。

左手について「幼稚園のときにジェットコースターの一番前に乗っていてモーターに巻き込まれた」と言っていたが、本当とは思えなかった。でもそれ以上は聞かなかった。
お父さんはおらず、お母さんは昼も夜も働いているという。
「だからオレが妹の分もご飯を作ってる。もう小学生になったから『お子様ランチ』じゃなくて小学生ランチだ」と笑った。
「それは大変だな」とは思ったが、「かわいそう」という気持ちはなく、「すごいやつだ」という一種の尊敬があった。

「いじめ」ともいえる行為が始まったのはその頃であった。
加害者はクラスメイトではない。先生だ。
若くはない男性教師が、なにかにつけてよしかずをひどく叱るようになった。それは教育とはかけ離れたものだったと今でも思っている。

ある日は消しゴムを持ってきていなかったよしかずに先生が近づき、頭を小突いた。
「何回忘れ物をすればわかるのか」というようなネチネチとしたお説教が始まる。
と、今度はじっと下を向いているよしかずの髪をつかみ前後に揺さぶり、そのまま立ち上がらせて床に倒したりした。

よしかずは毎回、凍りついたような顔になったが、授業が終わると「やれやれ」といった感じでその鎧を解くかのようにいつもの飄々とした様子に戻った。
いま思えば、そうやって自分の心を守る術をすでに身につけていたのかもしれない。

当時の社会は、まだ体罰も容認されているようなところがあり、本人も深く気にしているようには見えなかったせいもあるのか、こういった行為が明るみに出て追求されることはなかったが、私を含め、何人かのクラスメイトが家でこのことを話したため、授業参観の後の懇談会で先生に事情を聞く場面があったらしい。
「複雑な家庭で、教育の支援が必要だった」というような説明だった、と母から聞いた記憶がある。

その後、よしかずへの体罰は減ったように感じたが、私を含め、家で体罰のことを話したクラスメイトへの指導が目に見えて厳しくなった。
もちろん、私たちに教育が必要な足りない部分があったのは認める。
しかし、例えば教室の掃除を他のみんなより少し遅く終われば「帰りの会が遅くなった」と言われ、早く終われば「手を抜いている」と言われる。たった1分ほどのことなのに。

なによりも、陰湿な言い回しが受け入れ難かった。
あるとき、学級日誌の書き方がなっていないと放課後に残されて叱られた。
たしかに手抜きはあったかもしれないが、その言い方が、「あんたは〇〇ちゃんより成績がいい。でも〇〇ちゃんのほうがちゃんと書いている。なんで同じようにできないのか」というもので、「信頼に足るひとではない」と思った。

「叱られ仲間」は同じ地区から通う友だち(つまり他所からやって来た新興住宅地組)が多かったため、夕暮れの帰り道に先生への文句を並べることもあったが、よしかずはどこか達観しているような口調で「まあ、しょうがないでしょ」と言うだけだった。

よしかずはその後、突然、学校に来なくなった。
しばらくして、母親が姿を消してしまったため兄妹で児童擁護施設に預けられた、と聞いた。

いま思い出すのは、飄々としているような、ふざけているような、でもどこか絶望を抱えているような、よしかずの後ろ姿だ。
どこかで幸せになっていてほしいと心から願っている。

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