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芍薬とミラノの店のシニョーラ

半年ぶりに美容院へ行ってきた。

外出制限、接触制限が一番厳しかった2020年に、やはり長いあいだ髪を切れない期間があって、そのときに伸びた鎖骨の下ぐらいまでという長さが意外と扱いやすいことに気づいてからは、以前のような頻度(2ヶ月に1回ほど)で通うことがなくなったが、「すっごく頭大きく見えてバランス悪いから、前みたいにしたほうがいいのに」という娘のアドバイスもあり(実際、頭が大きい。笑)、定番のショートボブに戻した。

お天気もよく、気分が少し上がって、帰りに芍薬の切花を買った。

まだつぼみのもの、開きはじめているものを取り混ぜ、5本ずつの束になって並んでいる。
鮮やかなピンクや淡いピンク、真っ白など様々な色の中から、ところどころうっすらピンクが混ざった生クリームのような優しい色味のものを選んだ。

若いころから草花はシンプルなものに惹かれる傾向にあった。
例えば、バラはどれも個性があって美しいが、山や幹線道路沿いなどに咲いている野生の一重咲きのバラに特に惹かれるし、山吹なども同様だった。

ところがここ数年、この芍薬のようなふくふくと穏やかな華やかさもいいものだなあ、と思うようになった。



思えば、結婚後日本を離れてミラノへ渡ったとき、印象的だったのは比較的お年を召したシニョーラたちの存在感だった。(1990年代半ばのことです)

家の中では家事のしやすい質素な「家庭着」みたいなものを着ているものの、ひとたび家を出るときには、スーパーへ行くのであってもきちんとした格好をする。

最初は「さすがファッションの町ミラノ!」と感心したが、そのうち、いわゆるモード感とかファッショナブルというものとは少し違うことに気がついた。

それは、それぞれの髪や目、肌の色やその雰囲気、質感によく合ったものを知り、単なる「おしゃれ」としてだけでなく、「自分を知り、自分であることに誠実である」そして時には「自分を律する」ということに近いように見えた。

とろりと柔らかいシルク生地のブラウスは、ぴちぴちした若い肌ではなく、年齢を重ねた(いわばしわの目立つ…)肌のほうが似合う。水玉柄も生地や色味が厳選されているのか、みな不思議と似合っているのだ。
芍薬を見ていて、そんなことを思い出した。


そんな折、1ヶ月後には夫の仕事でフィンランドへ向かうことが決まっていた私は、ミラノにいるあいだに夏のニットを買おうと、義母の馴染みの店を教えてもらった。
今でこそ「この5年で買ったのは数着」という無頓着さだが、結婚する前はそれなりに着るものに気を配っていたほうだったこともあって、ミラノで服を買うことにわくわく感いっぱいで店に入った。

イタリアのこういった個人の店の多くは、既出の「ミラノの小さな店でパジャマを買う」にあるように、探しているものを告げると奥から出してきてくれる、というシステムだったが、今でいう「セレクトショップ」のようなこの店は、店内にも一通りのものが並べられていていた。

その中でぱっと目を引くものがあり、私はお店の人に見せてもらえないか頼んだ。
詳細はよく覚えていないのだが、紺色のゆったりしたタイプのニットだったと思う。
すると、お店のシニョーラは少し言いにくそうに、でもはっきりと「…私の意見ですが、これはお客さまにはあまり合わないかと」と言った。
似合う服を着てもらいたい、というプロ魂に圧倒されてしまい、結局その服は買わなかった。

好きなものを着ればいいじゃないか、というのもその通りだと思う。
実際、その後も私は自分にはどれが似合うのか、という探求はしないまま、これいい!と思うものを直感で選んできた。試着してあまりにも「違う」と思えばやめるが、基本的には「好みのもの」を着ていることに変わりはない。

でも最近、もしまだあの店があって、あのシニョーラがいたら、どんな話をするだろうか、と思うことがある。
私の好きなものと、そして私に似合うものをすり合わせる作業は、とても楽しく豊かな時間になるに違いない。

今でも白、黒、そしてそのあいだのモノトーンに、紺やデニムが加わるという色味のシンプルな服がほとんどだ。(合言葉は何にでも合う。笑)
削ぎ落とされた凛とした美しさというのにも憧れるが、ときにはこの芍薬のように、とまではいかないまでも、ふわりとやわらかな華を身につけて、軽やかに笑っているのもいいなあ、とも思う。歳を重ねればなおさらのこと……

まずは膝の出たレギンスを履き替えてスーパーに行ってくるところから。ははは。

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