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修行で知識・技術を習得するも、自信は皆無。しかし賽は投げられた

九死に一生を得た大事故によって目を覚まし、それなりに満足していた日々から大きく飛び出す=起業する人生へと舵を切るべく、ゲインを退職。

意気揚々と旧友に起業を持ち掛けるも…見事に出鼻をくじかれた僕。

まずは、地元のプログラム教室でコーディングの勉強をして何か仕事につながればと思っていました。ただ、勉強しているだけでは駄目だと感じ、Web制作会社に応募するも、「営業はどう?エンジニアよりそっちをやってよ」という感じでなかなか難しい。

その後、名古屋のWeb制作会社の『オフィスコンクリート』でほんの少しだけ働くことに。若い中居社長はアイデア豊富でとても聡明な方でした。なので、受注仕事だけでなく、自社サービスをどんどん伸ばしていっていました。「ホームーページ制作とデザインできれば、サービスを世に出すことができる。」ということを教えていただき、「それだ!」と思った頃。会食に誘われ、「幹部にならないか?宮下くんは社長よりサポート側の方が向いているのじゃないかな」と言われ、すごくありがたかったのですが、どうしても起業したかった僕はご迷惑をおかけする前に辞めようと思い、また1人になりました。

「これからどうしよう」と途方に暮れたわけですが、悩みぬいた僕が起こした突飛な、おそらく修行と呼ぶにふさわしい「行動」…。

それは、一本の電話から始まりました。

「お金はいらない。身を捧げる代わりにノウハウがほしい」と社長に直談判
 
「これからはWebだ。紙メディアだけでなくWebメディアも必要だ」

ゲイン時代の経験などからこのような着想を得ていた僕は、かつて何かの交流会で名刺交換していた名古屋のWeb制作会社『アライブ株式会社』の三輪社長に電話をかけ、こうお願いしました。

「お金は一切いりません。修行をさせてほしいので、身を捧げるので、ここで働かせてください」

ちなみにアライブは、名古屋大手のWeb制作会社であり、マーケティングにも強い企業です。閲覧者に刺さるWebサイト制作はもちろん、狙ったキーワードで検索上位表示するためのSEO対策、SNS運用にも長けています。

“ここなら、Webについて幅広く勉強できるんじゃないか”
そんな気持ちで(内心はドキドキしながら)電話をかけました。

電話を受けた三輪社長は、
「君、面白そうだからとりあえず一回おいでよ」と興味を持ってくださって。

一週間後、オフィスに呼ばれた僕は、将来起業しようと思っていること、社員になって給与をもらうのではなく、身を捧げる対価として「ノウハウ」がほしいと思っていることなどをお話しました。

ところで僕が「就職」ではなく、給与をもらわない「修行」という形式にこだわったのには、大きな理由があります。
それは、起業することを隠して就職し、また「退職します」と告げるなんてことはしたくなかったから。

これまでの経験上、僕はすぐに職場を、一緒に働く人たちを好きになってしまうとわかっていたので、もう大切な人たちに迷惑をかけたり、悲しませたりすることは二度としたくなかったのです。

三輪社長はそんな僕を面白がってくれて、

「いいよ、おいでよ」と一言。

ゲインを退職して起業するかと思いきや…?
一転、アライブでの修行の日々がスタートしました。

アライブではWebサイトのプログラムを書いたり、営業に同行してマーケティングを学ばせてもらったり。
勤務形態は社員さんとほぼ同一。
自分の事業立ち上げのための仕事(※)で休ませてもらうことはありましたが、仕事がない時は出社し、誰よりも遅く残って働いていました。
※起業の前段階として広告代理業的なアプローチをスタートさせ、お金になりそうな契約は何でも取りにいこうと必死になっていました。

仕事への対価はノウハウなので、給与はもちろんナシ(交通費のみ出していただきました)。
知識から技術まで、本当にたくさんのことを学ばせていただきました。

修行から半年が過ぎるころには、シンプルに「会社の仕事を手伝ってほしい」と依頼され、頼みごとに関しては時給換算でお金をいただくように。

社内ブログも書くし、飲み会にも参加するし、年末年始には実家にネコも持ち帰るし…(アライブではオフィスで猫を飼っています)。
社員さんからは「宮下さんって何者⁉」なんて感じで、面白がられていました。

旧友との決裂を受け入れたあの日…。僕は真のスタートラインに立った
 
こうしてアライブの仕事を請け負いながら、起業の足掛かりにするべく営業活動に邁進すること1年…。

ケリー(前職場・ゲインの自社メディア)への広告出稿をお願いしたり、イベント開催の提案をしてみたり、自分ができそうなことには片っ端から取り組みましたが、なかなか実を結ぶことはありませんでした(ゲインで担当した顧客はすべてゲインに残していくと決めていたので、本当にゼロからのスタートでした)。

肝心の旧友はというと、当初「一緒に岐阜で起業する」と意気投合していたのに、「三重に引っ越す」と衝撃のカミングアウト。

理由を聞くと、「奥さんの実家の近くに引っ越す」のだとか。
思わず「それはおかしいだろ、話が違う」と僕が言うと、
「奥さんにお金を入れなきゃいけない」「お金が必要だから就職する」「ちょっと体調が悪い」など、起業に対して完全に及び腰。

「起業なんてお金がなくてもやるもんだろ」と覚悟を決めていた僕と、大きなすれ違いが生じるようになっていきました。

何より僕は、給料や福利厚生が抜群によく、“生涯安泰”といっても差し支えない暮らしが約束されていた『塩野義製薬株式会社』を退職しています。
起業をするために腹をくくり、人生をかける決断をしてきたのです。

旧友は「お前の人生はお前自身で責任を取るべきだ」とも言い始め、「そもそも巻き込んだお前がそれを言うのか!?」と僕は怒りすら覚えるほどに。
相手への信用はガラガラと見事に崩れ落ちていきました。

起業について何の進展もないまま、さらに半年…。

家族のほか、ちょうど結婚が決まった彼女からも「退職して起業するって言ってたのに、どうなってるの?」と“ごもっとも”な気持ちをぶつけられ…。

もはや我慢の限界だった僕は、旧友との決裂を覚悟し、最後の話し合いを持ちかけました。

*****

岐阜のとある喫茶店にて。
僕は旧友に尋ねました。
「本当に起業する気はあるのか」と。
彼の答えは「まだしない」…

僕「じゃあこれからどうするの」
彼「お金がないから就職して食いつながないと。お前ももう一回サラリーマンやれよ」

「…いやおかしくね?それ違うだろ。俺は起業するためにシオノギを辞めたし、転職先も辞めてんだぞ?どれだけいろんな人に迷惑かけて、どれだけ自分の心にムチ打ってここまで来てると思ってんだよ!…」

旧友の返答に、どうしても怒りを抑えることができませんでした。

振り返れば約3年間、僕はすべてを起業のために費やしてきました。
友だちと遊ぶ時間を削って本を読み、がむしゃらに働き学び、お金も一生懸命貯めてきたのです。

そこまでの気持ちを踏みにじられたような気がして、いてもたってもいられませんでした。

ただ、なぜ3年もの間、旧友と離れられなかったのか。

今振り返ればそれは、何もない自分が、たった一人になるのが怖かったから。
起業に飛び込めるほど特別な「何か」が、自分にはないと思っていたからだとわかります。

事実、旧友のアイデアは面白く、魅力がありました。
当時の僕は、「彼と起業すれば何とかなる」そんな甘えがあったし、彼のことを頼りきっていました。

だから決裂を予感して喫茶店へ向かったときは、シオノギの同期や上司、親の顔など、これまでのことが走馬灯のように駆け巡りながら、心は正直、不安で押しつぶされそうでした。

と同時に「起業するって言って辞めたのに…。かっこわる。なんだよ俺?」なんて気持ちも。

後には引けないのは当然、立ち止まってもいられない。
そんなギリギリの状態だったのです。

余談:お金も返してもらえなかった!怒

旧友とはシオノギ時代、他メンバーも含め3人でお金を出し合い、何百万もの大金をかけて音楽フェスを開催したことがありました。
しかし、その売上金などは一切、僕のポケットに入ることはなく大赤字(旧友いわく「俺もいろいろお金がかかったんだから仕方がない」とのこと)。
さらにゲイン退職後、起業に向けて個人的に行っていた広告代理業で得た報酬は、旧友名義の共同口座へ(無知でした)。
一緒に貯めてきたはずのお金を、僕は起業のために1円も使うことができなかったのでした(「金返せ!」と言っても返してもらえませんでした!怒)。

想いを込めた「名前=リンクストーリー」だけを頼りに、いよいよ起業へ
 
「起業しよう」と声を掛けてきた旧友と決別し、気付けば独りぼっちに。

とはいえ立ち止まってはいられないので、気を取り直して。

会社を興す=事業が必要だと思っていた僕は、「広告代理店ではないし、かといってWeb制作会社?それも違う気がする…」と、事業内容について悶々と頭を悩ませていました。

しかしこの時、読んでいた本に

『悩んでいるくらいなら、名刺を作って代表取締役になっちまえよ』
『俺、会社作ったんだ。そんな俺カッコいい!それでもいいじゃないか…』

そんな話が書かれていて、「ビジネスモデルがなくてもやってしまうのも一つかもしれない」と攻め方を変更。

今思えば軽率ですが、
「起業するって決めたんだから、もう会社を作る!会社を作れば何とかなる。何とかする!」

こう自分に言い聞かせ、その後は「会社の名前」を考えることに精魂を傾けました。

会社名は基本、変わりません。
だからこそ、しっかりと想いを込めたかった。
現在の「リンクストーリー」にたどり着くまで、実に半年近く考え、悩み、さまざまな想いや候補が通り過ぎていきました。

リンクストーリーは、

To link our story to the next generation.

の略です。

いろいろな人たちの想いを引き継ぎ、次の世代に繋いでいく…。

「そんな仕事をしていきたい」と。
「物語をつなぐ。リンク。リンクストーリー…。シンプルでいいな」。
そんな感じで、会社名が決まりました。

ところで、実際に「会社を設立する」となれば、さまざまな登記書類を法務局へ提出しなければなりません。

当時、提出した書類の一つ・定款(※)を久しぶりに見てみたところ、見事に僕の「迷い」が見て取れました。
※定款…会社名や事業内容、事業目的など、会社の根本原則をまとめた書類。

一般的には5つほどの「事業目的」が、31個…(自分で調べながら作成しました。今なら絶対、プロに頼みます笑)。

公証役場(※)の担当者に「えぇ~?いやこれ、多くない?まぁいいけど…」と嘲笑されたほどです。
※公証役場…法務省が管轄する役所。遺言、各種契約、定款等の認証など公証業務を行う。

当時の僕にはやれることが何もなかったし、やりたいことも明確には決まっていませんでした。
だから逆に、想いを繋げられるような事業はもちろん、思い付く限りのやりたいことはすべて盛り込んでおかなければ!と躍起になっていました。

クライアントも仕事もない。お金もない。
挙句の果てには、事業内容も決まっていない。

広告代理店でもない、Web制作会社でもない…。
「リンクストーリー」という名前だけを掲げ、ようやく僕は走り出しました。
 
To be continued…

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