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Ⅱ③中村元の合理主義

響く仏教・いまここにきくⅡ③
中村元の合理主義

今回は、近現代日本における「アヌブッダ(ブッダに従って目覚めたブッダ)」ともいうべき大学者・中村元先生の著作『佛教語大辞典(東京書籍)』を頼りに、「法(ダルマ)」について考えていきたいと思います。

まずその項目の最初には、法とは「ダルマ(dharma)」の漢訳で、「保つもの」という意味の語根に由来する言葉であると記されています。

そしてそれに続いて、

①慣例。習慣。風習。

②なすべきこと。つとめ。義務。

③社会的秩序。社会制度。

といった語意が挙げられ、インドで一般に使われている「法(ダルマ)」の意味としては、「規範となって人間の行為を保つもの」「行為の規範」「行為の規則」が元来の意味であると記されています。


人と人との間に生きなければいけない世間にあって、私たちは日々右往左往しながら暮らしています。揺れ動く心と行いをブレないように保ち、為すべきことを為して生きていくためには、何らかの「指標」であったり、「よりどころ」「よるべ」「よすが」となるものが必要となるのでしょう。

何でも自分の自由にやっていいとなると、逆にどうしていいか分からなくなるものなのかもしれません。これをしておけば大丈夫。というような「決まりごと」があった方が、案外生きやすいのかもと思います。


中村元先生は著書『合理主義-東と西のロジック-(青土社)』のなかで、

インド人のあいだに顕著な思惟傾向のひとつとして、行為に関する「普遍的規範の尊重」ということが挙げられる。かれらは普遍的規範に対して随順する傾向が顕著であって、その媒介者としての特定個人、或いは特定団体の神的宗教的権威を大して認めないのである。

インド人は具体的な人間結合組織としての教団を重視しなかったそのかわりとして、いかなる個人いかなる人間統合組織といえども随順すべきところの、普遍的な法の権威を重視したのであった。

と述べられています。


西洋においては教祖や教団、経典に対する絶対的信仰が強調されるのに対して、インド人を代表とする東洋は、普遍的規範、すなわち「法(ダルマ)」を重要視して、それに従おうとする傾向があると言われるのです。

また西洋の宗教においては、絶対的な教義に基づく教団の統制力が強固であるのに対比して、東洋の場合には、一人一人の生き方を主題とする「道」または「道理」を求めるところに、その宗教の特徴があると言われます。


普遍的規範があるならば、それは間違ったもの、疑わしいものではなく、

どんな状況にあっても、確かに信じることの出来るものでなくてはいけません。


誤りではなく、正しいこと。

嘘ではなく、本当のこと。

偽ではなく、真であること。


『佛教語大辞典』の法(ダルマ)の項目には、続けて

⑤真理。理法。普遍的意義のあることわり。

という意味が記されています。


真理とは、理に適っているということです。

ある特定の時代や地域や文化においてのみ通用する一般常識や社会通念、伝説や神話への信仰のみを対象として絶対化するのでは、真理とは言えません。また、異なった宗教を信奉する者であっても受け入れざるを得ないような論理性がなければ、真理とは言えないはずです。


理に適うところまで思考を重ねて推理し、議論を尽くして合意を導くには、確かな思考の筋道で組み立てられた論理性が必要となります。

異なる主張を持った互いが合意するところまで論理性が高められた地点でこそ、合理的な認識や判断が可能になります。


もちろんそれは、科学的な「エビデンス(根拠・証拠・論証)」にも適応しているものでなければいけません。

あらゆる時代や地域や文化において、人間の理性や知性に適う形で、心から頷くことのできる教えであってこそ、普遍的意義のある「真理の法則」に基づく宗教と言えるはずです。


小学館のデジタル大辞泉によると「合理主義」の説明には、

①物事の処理を理性的に割り切って考え、合理的に生活しようとする態度。

②哲学で、感覚を介した経験に由来する認識に信をおかず、生得的・明証的な

原理から導き出された理性的認識だけを真の認識とする立場。

あります。しかしながら中村元先生は、著書『合理主義-東と西のロジック-』のなかで

経験を無視した合理主義は無意味である。

と断言され、人間の理性の「不確かさ」を指摘されました。


そしてまた、

合理主義なるものを、自然または人間に関する「道理」に合することを目指すものとするならば、われわれも異論はない。しかし、人間の感情、情緒や意欲、欲望などを無視し、それと対立するもの、すなわち西洋哲学で言ういわゆる「理性(reason,vernunft)」に合することを意味するのであれば、それは人間の真理を逸することになる。そもそも理性を尺度に取るということ自体がどれほど客観的な意味のあるものであろうか。


と述べられ、私たちが認識する「合理主義」の意味を、大きく転換した捉え方を示されました。


合理主義というのは、自然または人間に関する「道理」に合することを目指すものであり、それは人間の理性に関することはもちろんのこと、感情・情緒・意欲・欲望といった感覚に関することをも対象として、人間の主体的な経験に基づく「合理」を追求するものだと、中村先生は述べられます。

不確かな人間の理性による認識や判断を絶対とするのではなく、自然の道理に適ったあり方、自然な道筋を示すのが「法(ダルマ)」であり、それこそが人が生きていくために必要な「指標・指針」として、私たちが「保つべきもの」だと言われるのです。


中村先生は、インド人が求めた「ダルマの宗教」の究極として仏教を挙げられ、

このような宗教は、それ自身が合理主義的であると言い得るであろう。

と述べられています。


理性的認識の範疇を越えた「合理」として示される、法(ダルマ)とは? 真実とは?

更に掘り下げて、考えて参りましょう。


photograph: Kenji Ishiguro



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