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Ⅲ①人間の真実を語るダルマ

響く仏教・いまここにきくⅢ①
人間の真実を語るダルマ

前回『佛教語大辞典(東京書籍)』を頼りとして紐解いた「法(ダルマ)」についての考えをまとめてみると、

人間が生きるにおいて普遍的な規範として保つべき理法、真理の法則

といったほどの意味になるでしょうか。

しかしながらここで言われる「真理」が、人間の理性や知性の働きによる「ロジック(論理・論法・議論の道筋)」で説明できるような範囲のものだけかというと、必ずしもそうではないようです。

『佛教語大辞典』の法(ダルマ)の項目には、
④善。善い行い。徳。
という語意が記されています。

英語でいう「truth」は、直訳的な真実という意味の他に、
loyalty(忠実)
trustworthiness(信頼できること)
sincerity(誠意)
genuineness(純粋)
honesty(正直)
といった意味を持つそうです。
これらは一見論理的な真実とは無関係に思える言葉です。

ラテン語で真理の意味を表す「veritasu」は、
sincerity(誠意)
straightforwardness(率直)
candour(公正)
integrity(誠実)
uprightness(高潔)

またギリシア語で同義を表す「アレーテイア」も、
frankness(率直)
sincerity(誠意)
と言った意味を含み「truth」と同じ側面を持つ言葉なようです。

中村元先生の著書『合理主義-東と西のロジック-(青土社)』では、上部の例に続けて、

人間関係において偽りがない、誠実を尽くしている、といったことが「真」という言葉の原初的な意味であったと言える。

と述べられています。


真という言葉の意味には、真と偽の二つに分けられたものの内一つという意味以上に、人の心の「まこと」という意味合いの方が先のものとしてあるようです。そしてこれらの意味はどれも、悪の観念とは対極にある「善」を示す言葉であるようです。

理屈ばかりで頭でっかちになっても、他者に共感を及ぼすものにはなりません。
気持ちばかりが先走って感情的になり過ぎても、やはり共感は起こりにくいでしょう。

本音と建前という二元に分かれることなく、
心から頷けるものとして、一致すること。

裏表なく心から本当に「善」であると思えることが「真」であり、
それこそが「真理」であるということでしょうか。

そしてまた、先に挙げたギリシア語のアレーテイアという言葉には、「真実を語る性質(the character of one who speaks truth)」という意味があること、これは、仏典における「法(ダルマ)」の意味合いにも一致すると述べられています。

『佛教語大辞典』の法(ダルマ)の項目には、
⑥全世界の根底
⑩本質。本性。
という語意が記されています。

それを仏教では「真如」とも「法性」とも言います。
先の「Ⅱ①伝説的ブッダと神話的ブッダ」で述べたように、

真如・法性は、
そのままにありのままであることを、
そのままでは到底気付きようのない私たちにも理解できるように、
ありのままの姿かたちとなって自ら現れるもののようです。

色も形もなく言葉にも表されない「法性法身」と、
それを姿かたちに現して伝える「方便法身」がそれです。

その「はたらき」のあることを、
自ずと伝えようとする本来的な性質が、
ダルマにはあるということでしょうか。


普遍的規範となるダルマとは、
誤りではなく正しいことであり、
嘘ではなく本当のことであり、
決して人に悪をもたらすものではなく、
必ず善をもたらすものであり、
そして、それが真実であることを語ろうとするもの。
ということでしょうか。


真実・真如・法性(ダルマ)に、気付き・目覚め・悟られたのがブッダであり、
ブッダが語られた言葉もまたダルマであり、
それこそがブッダのダルマ、すなわち「仏法」ということです。 

ブッダとは覚者(真理をさとった人)を示す普通名詞です。

つまりブッダを信じるとは、決して特定の一個人のみに対する帰依や随順を意味するのではなく、覚者を覚者としてあらしめているダルマを信ずることに他ならないということです。

ダルマ(法)の権威は、ブッダ(仏)以上のものであるようです。

中村元先生は著書『合理主義-東と西のロジック-』で、こう述べられています。

仏教で説くところの縁起の理法は、永遠の真理である。「如来が世に出ても、或いは未だ世に出なくても、この理は定まったものである。」如来はただこの理法を覚ってさとりを成じ、衆生のために宣説し、開示しただけに過ぎない。覚者或いは達者は、何ら神秘的な霊感或いは啓示を受けたのではなくて、ただ真実の理法をさとっただけなのである。

その文言に従うならば、

永遠の真理である「縁起」の理法に気付き、
それに目覚めることによって、
ブッダの悟りがもたらされる。
ということでしょうか。


ブッダのダルマ、仏法として説かれた「因果と縁起」の理法を学び考えることから、「悟り」なるものに、少しずつでも近づくことができたらと思います。

photograph: Kenji Ishiguro


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