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富山県富山市の港町・東岩瀬にあるお寺の住職で、河上朋弘(かわかみほうぐ)といいます。自…

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富山県富山市の港町・東岩瀬にあるお寺の住職で、河上朋弘(かわかみほうぐ)といいます。自分の腑に落ちた仏教を、ひとにも届くような言葉にして、伝えたいと思っています。 慶集寺ウェブサイト https://kyosyuji.iwase.toyama.jp  南無阿弥陀仏

最近の記事

Ⅳ②誰の思うようにもなってない

響く仏教・いまここにきくⅣ② 誰の思うようにもなってない 私たちの世界における諸々の存在や現象は、いかなるものもすべて一時として止まることなく変化し続けています。 物も変われば、時代も変わり、人も変われば、心も変わっていきます。 すべてのものごとは常に移り変わって行くものです。 過去から現在へ、現在から未来へ。 止まることも、戻ることもなく、時間はいつも進み続けています。 これが諸行無常という事実であり、現実です。 諸行無常は、世界の有り様をつぶさに観察すれば、誰

    • Ⅳ①すべては移りゆくもの

      響く仏教・いまここにきくⅣ① すべては移りゆくもの 種(A)→ 花(B)→ 実(C) 種を蒔いたから、花が咲いた。花が咲いたから、実が成った。 原因Aがあるから結果Bがあるわけで、原因Bが起きることによって、結果Cが起こるということです。 すべての事象にはそれが起こるための原因が必ずあって、それらはまた何らかの結果を生むための原因にもなる、ということです。 このような「因果律」に基づく考え方は、論理的な思考を働かせて物事を推理推察する際に基本となるものの見方であり、理

      • Ⅲ③思い込みと決めつけ

        響く仏教・いまここにきくⅢ③ 思い込みと決めつけ 自らの意思で検証したり考察したりすることなく、ただなんとなくそう言われているからとか、なんとなくそんな感じがするからとか、なんとなく強く断言する人がいるからとかで、なんとなく根拠もなく信じたり、受け入れられていたりすることが、案外世の中には多いものです。 占いやまじない、暦を読むとか、加持祈祷などの宗教儀礼、ジンクスとかいった類のことは、往々にして科学的な根拠がなく、そもそもの因果関係も覚束ないものだったりします。 ときに

        • Ⅲ②因果と縁起の道理について

          響く仏教・いまここにきくⅢ② 因果と縁起の道理について今回は、仏法として説かれる因果と縁起の道理について、自分なりに解説してみたいと思います。 例えば、種を蒔いて、花が咲く。花が咲いて、実が成る。というのは、原因と結果の関係性を言っているもので、こうした見方を「因果律」といいます。 種(A)→ 花(B)→ 実(C) Aがあるから、Bがある。Bがあるから、Cがある。というように、ある事象Cが引き起こされるための原因Bを探り、さらにその原因となった事象Bが引き起こされるため

        Ⅳ②誰の思うようにもなってない

          Ⅲ①人間の真実を語るダルマ

          響く仏教・いまここにきくⅢ① 人間の真実を語るダルマ前回『佛教語大辞典(東京書籍)』を頼りとして紐解いた「法(ダルマ)」についての考えをまとめてみると、 人間が生きるにおいて普遍的な規範として保つべき理法、真理の法則 といったほどの意味になるでしょうか。 しかしながらここで言われる「真理」が、人間の理性や知性の働きによる「ロジック(論理・論法・議論の道筋)」で説明できるような範囲のものだけかというと、必ずしもそうではないようです。 『佛教語大辞典』の法(ダルマ)の項目

          Ⅲ①人間の真実を語るダルマ

          Ⅱ③中村元の合理主義

          響く仏教・いまここにきくⅡ③ 中村元の合理主義今回は、近現代日本における「アヌブッダ(ブッダに従って目覚めたブッダ)」ともいうべき大学者・中村元先生の著作『佛教語大辞典(東京書籍)』を頼りに、「法(ダルマ)」について考えていきたいと思います。 まずその項目の最初には、法とは「ダルマ(dharma)」の漢訳で、「保つもの」という意味の語根に由来する言葉であると記されています。 そしてそれに続いて、 ①慣例。習慣。風習。 ②なすべきこと。つとめ。義務。 ③社会的秩序。社

          Ⅱ③中村元の合理主義

          Ⅱ②ブッダたちの伝えてきた仏法

          響く仏教・いまここにきくⅡ② ブッダたちの伝えてきた仏法 ゴータマ・ブッダという歴史的人物を指す固有名詞として認識されることの多い「ブッダ(buddha)」という単語ですが、本来は「目覚めたる者」という意味の普通名詞であることを、前回では申し上げました。 いずれにしても「ブッダ」といえば、仏教固有の信仰対象を示す用語である、という認識が通常のように思われるところですが、ゴータマ・ブッダの生存された古代インドの時代に立ち返ってみると、必ずしもそれは仏教に固有のものではなかった

          Ⅱ②ブッダたちの伝えてきた仏法

          Ⅱ①伝説的ブッダと神話的ブッダ

          響く仏教・いまここにきくⅡ① 伝説的ブッダと神話的ブッダ さて、まずそもそも仏教とはどのような宗教かということを確認しておくと、読んで字の如く「仏の教え」すなわち「ブッダの教え」です。 キリスト教がイエス・キリスト、イスラーム教がムハンマドというように、仏教という宗教にもそれを開いた始祖がいるわけで、それが「ブッダ」であるということです。 前回述べましたように、仏教には多様な仏(ブッダ)があるわけですが、ここで言うブッダとは、歴史的に実在した人物「ゴータマ・ブッダ」を示す

          Ⅱ①伝説的ブッダと神話的ブッダ

          Ⅰ③仏は如来と同じ

          響く仏教・いまここにきくⅠ③ 仏は如来と同じ 天台宗や真言宗、禅宗、日蓮宗、浄土宗、そして浄土真宗など、日本の仏教にはさまざまな宗派があり、それぞれの宗派で、礼拝の対象となるご本尊が定められています。 すべての宗派に共通する礼拝の対象は釈迦牟尼仏、いわゆる「お釈迦さま」です。しかしながら他にも、阿弥陀仏、大日仏、薬師仏など、さまざまな仏さまがいらっしゃいます。仏教は一つであっても、様々な捉え方があって、仏さまと言っても多様にあるということです。 私は浄土真宗本願寺派の僧侶

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          Ⅰ②ほとけの語源

          響く仏教・いまここにきく Ⅰ② ほとけの語源 仏さまのことを、本家本元であるインドの言語、サンスクリット語では「ブッダ(BUDDHA)」といいます。このブッダという言葉が中国で漢字で音写されて「仏陀」という表記になり、それが省略され「仏(ブツ)」となって、更には中国から日本へと伝播する過程で、「ほとけ」という読みに訓読されるようになったということです。 ではなぜ、日本では「ほとけ」と読まれたのかというと、それについては諸説あるようです。 一つには、仏教が公式に日本に伝えら

          Ⅰ②ほとけの語源

          Ⅰ①そもそも、神さま?仏さま?

          響く仏教・いまここにきく Ⅰ① そもそも、神さま?仏さま? 「神だのみ 仏だのみ」や「神も仏もありゃしない」などという言い方があります。神棚も仏壇も神社もお寺も、旧来より引き継がれてきた地域・親族の慣習や、ならわし・しきたりとして、これまで伝えられてきたからでしょうか。一般的な日本人の宗教観として、神さまも仏さまもいっしょくたにして語る部分があるようです。 深く考えることもなく、当たり前のようになんとなくある「神さま」そして「仏さま」。けれども、宗教の主として示される神や仏

          Ⅰ①そもそも、神さま?仏さま?