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本「心のおもむくままに」:感想記録

本「心のおもむくままに」:感想記録

先に書いたように人間ドックで時間がとれたので思ったよりも速く読了できました。

これは、老婆が孫娘に残す手紙(日記的)の形式で書かれています。
この構成がよくできていて、徐々に老婆の謎が明かされていきます。

一番印象に残るフレーズは、これです。
「逝ったものが胸にのしかかるのは、いなくなったためというより、おたがいに言わなかったことがあるためなのだよ。」

著者自身が両親が離婚して祖母に育てられたという生い立ちをもっています。しかし、この作品は祖母視点の日記として日付毎に区切られて構成されています。
祖母、娘、孫娘という三代の連なる人生が描かれています。

祖母と娘の葛藤。そして育ての親である祖母と孫娘の葛藤。このカルマのごとき意図せぬ葛藤の軌跡について、晩年の祖母が思いを巡らせて、大切な人生を生きる智慧を最後に書き残そうとしています。

なので、所々に瞑想的な宗教的な悟り的なフレーズが書かれています。

イタリアの自然、風景、建物、近隣の住人、そして愛犬。イタリアへは行ったことありませんが、都会ではない小さな町に住む老婆であることが感じられます。

最近、小説を読んでいなかったからかもしれませんが、一つの段落が長く感じました。先の環境を存分に引用して多くの形容がされています。その表現が素敵で、単なる悟りの結論の一フレーズがポンと置かれているのとは違って、しっくりとこちらに入ってきます。

感想文が大嫌いだったしんちゃんが、この様に本の感想を書いているのは不思議な気分がしています。

そもそも普段の読書は情報の吸収、思考の吸収の為が多いので、この様な人間の感情や生活に直接根ざした表現の文章はあまり読む機会がありません。
以前は、小説はしょせんフィクションで絵空事が書かれていて信じられない的な偏見を持っていました。なので、ノンフィクションを好んで読んでいました。

しかし、小説はフィクションであっても、設定が創作なのであって、そこに描かれている人間の感情、心については日々のリアルな生活では表層に顕れない(もしくは表さない)言語で表現するのが非常にむつかしい、形のない、とらえどころのない何かをなんとか表現しようと苦闘する作家さんの挑戦なのではないかと思うようになってきました。

さて、この作品では祖母と娘、祖母の愛人との突然の悲劇的別れ(交通事故)で、分かり合うことが出来ない二人がある日突然二度と会えない死をもって強制的に決別させられます。それゆえにたくさんの悔恨の念が湧いてくるわけです。
そのこじれた関係性を修復するチャンスが、今から思えばあったはずなのに、そうならなかった、そうしなかった。それゆえの深い悔恨が描かれています。

小説の最後は、こう書かれて終わります。

「心の声を聞いてごらん。そして声が聞こえたら、立ち上がって、おまえの心のおもむくままに行くがいい」

原文のタイトルはイタリア語なので分かりませんが、翻訳本では「心のおもむくままに」となっています。なので、主題は「心のおもむくままに」なのでしょう。

この小説は1994年に発表されており、著者は当時37歳。祖母と暮らしていたとはいえ、この年で祖母の視点で全編を描ききっているのは正直驚きです。翻訳者のあとがきを読むとその点は苦労したらしいのですが、著者の深い思索と人生経験が老成していると思わせるくらいに祖母の心情に肉薄しているように感じます。

最初にこの本を読んでから30年が経過しています。内容の細かい部分は忘れていましたが、この「心のおもむくままに」というフレーズはずっと心に残っていました。

それは、小説内では、祖母、娘、孫娘という三代の女性の若さゆえの、そしてその環境ゆえに、徐々に固く殻をつくって次第にその殻に閉じこもって他者との関係性を拒絶する様を描いています。30年経った今読むと、その社会規範や当時の常識がやや古く感じられます。しかし、リアルな生活はそんなに速く変化に対応できません。
好むと好まざるとに関わらず、時代からは誰人も逃れられないのですから。

もう一つずっと記憶に残っていた表現が、
「子供は老人はよく似ている。~ 身体のまわりに目に見えない甲羅ができはじめる。」です。
その甲羅という表現は言い得て妙です。甲羅は外圧から身を守るためにできてくるのですが、それにより他者との自然な交流が阻害される原因にもなります。そして、孫娘は成長とともにその甲羅が強化されていき、祖母は甲羅がごぼぼろと剥がれ落ちていく。甲羅の厚さと強度は年齢ごとに、祖母、娘、孫娘に変化していきます。普通なら、娘と孫娘が一番一緒に過ごす時間が多いはずなのが、娘が事故で突然いなくなったことによって、祖母と孫娘という大きく年齢が離れた者同士での生活が余儀なくされる状況です。それが、この小説の設定のユニークな点です。

最後の文章を読んで思い出した事があります。古典的名著である「コンテクリスト伯(巌窟王)」です。主人公のエドモン・ダンテスが陥れられて牢獄に入り、その後脱出して復習の鬼と化すストーリーです。この小説の最後のフレーズも忘れることが出来ません。

それは、「待て、しかして希望せよ!」です。

ダンテスの受けた苦難・辛苦は筆舌に尽くしがたいものでした。それを著者は主人公に困難の嵐を吹きかけて、それに耐えさせる試練を与えて描きたい主題を表現したのでしょう。そこまでひどくなくてもと思うほどです。かなり古い小説ですが大変な人気だったようです。エンターテインメント性を持ちながら人生の真理にせまる素晴らしい小説です。

最後、ダンテスは復習を果たすのですが、そこで平穏を得た時に書かれていた一節が「待て、しかして希望せよ!」なのです。
最初読んだときは、?となり、ピンときませんでした。しかし、今では人生においてとても乗り越えられない様な苦難にあったとしても、慌てず、絶望せず、じっと時を待って、希望を捨てなければ、最後にはなんとかなるものだという人生訓ではないかと思えます。

平均寿命が近年急速に伸びていて、最近では人生100年時代などとも言われるようになってきています。それも世代交代をしながら徐々に寿命が伸びていくのが実際です。
この小説でも親の老いが今の感覚では非常に早い感じがします。今に比べると人生は50年位でとても短く、直ぐに過ぎ去ってしまう感覚です。なので、時間軸で見ると時間のスピードが早回しで直ぐに展開してしまう様に感じるのです。

それ故に、人生の一時期トラブルやアクシデント、誤解や反目することがあったとしても、勇気をもって向き合えば改修できる可能性も増えているのではないでしょうか。

不幸にして、好ましくない環境で生まれて育ってしまった場合であっても、自分の意思でそれを変えていくことは出来るのではないか。そんな希望を抱かせる本です。

しんちゃんは仏教徒です。釈尊は晩年に悟りの集大成とも言うべき法華経をあらわしました。法華経以前の教と以後の教では大きな差異があります。それが、全ての衆生が成仏できると説いた法華経に対して、それ以前の教ではある種の衆生は成仏できないと説いていたのです。
そのある種の衆生の一つが女人(女性)なのです。現代の男女同権が叫ばれる時代では如何にも前時代的な差別思想の様にもとられかねませんが、釈尊の真意はそうではないと思います。それは単なる性別の違いである女性という事ではなくて、女性に強く現れるある種の”愚かさ”という性質を指して女人とあらわしていると考えられます。
男、子供、感情に流されやすく、それゆえに愚かな行動をとってしまう人間の性を”愚かさ”と表現しているのです。

例えば、モーパッサンの有名な小説「女の一生」で描かれているのも、この”愚かさ”を象徴する姿です。

その様な愚かさに陥らずに、毅然と自分自身を生きる強さが本来人間は内在しているという悟りが、釈尊の愚かな女人でさえも最高の悟りの境地である仏になれる=成仏できると法華経で初めて説いたのです。

しかしながら、内在はしている=もともと持っている、とは言え、
それがいつも顕現できるとは限りません。それは、個人の意思とは関係ない理不尽で劣悪な環境、劣悪な悪人に囲まれている等の様々な悪条件により不本意ながら発揮することが出来ずに我慢をしいられている場合も多々あります。

それを開いていくのが、法華経なのです。

これが、この小説では”心のおもむくままに”と表現されているのだと思います。

この小説の中に登場する主な人は、ほぼ女性です。男性は、抑圧する人、無関心な人、悪い人ではないが関係性が薄い人、愛情を感じられない人などの設定で登場してきます。この不自由な立場は、本人に起因するというよりも、時代性、社会的規範、社会的価値観により引き起こされている面が強い。その中で、登場人物の女性達(祖母、娘、孫娘)がもがきながら、お互いの気持ちが理解されぬまま苦悩してゆく様子が描かれています。

その人生を振り返って、祖母が下した結論が「心のおもむくままに」に生きよ!
なのです。

これに関連して、印象的な一節が、

「不幸というのはいつでもきまって女から女へ受けつがれていくものだ。
ー空まであがらないうちにしぼんでしまう花火みたいな。」
です。

これは、仏教の輪廻にも似た感じがします。
輪廻転生の様に生死を超えた継承までいかなくても、世代ごとに受け継がれるモノはあります。人は育つ環境に従って大きく影響を受けます。そしてそれが親から子、子から孫へと受け継がれていくのは容易に想像できます。特に幼少期の庇護者は親なので、良きにつけ悪しきにつけ絶大な影響を受ける訳です。
それが、自由を制限された弱い女性という立場ならばなおさらです。

さて、視点を変えて恋愛、結婚観について書いてみます。

しんちゃんの青春期にはトレンディドラマがはやって、素敵な恋愛をしてその末に結婚というゴールに至るという様なイメージが喧伝されていました。歴史的にいうと自由恋愛という概念自体が新しいもので、それ以前の恋愛観、結婚観、倫理観、貞節観とうのはかなり異なった時代が長くあったようなのです。
それは、この本を読んでみて認識をあらたにしました。その時代の渦中にいると、比較対照するモノがないので今が全てだと誤解しがちなのです。

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ですから、この小説で描かれている女性達の恋愛、結婚観もそれぞれの時代性が色濃く反映されているはずです。

手紙の中には、祖母の慈悲にあふれた人生の智慧が語られています。
その一つに「人を判断する前に、その人のモカシン靴をはいて三ヶ月歩くといい」があります。
以前、アメリカ・インディアンの智慧を紹介した本を読んだことがあります。その時、鹿の皮でつくった大切な靴のことをモカシンということを知りました。

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想像するに皮の靴なので履いているうちに持ち主の足の形になじんでいくのでしょう。ですから、それを履いて三カ月も歩けば履いていた人のことが分かってくるということなのでしょう。

又、落ち込む祖母を励ましてくれたトーマス神父の言葉として、
「カシの木の下にすわるときにはあなてではなくカシであれ。森にいるときは森であれ。人と生きるちきには共にあれ」があります。
今で言えば、今、ここにフォーカスするマインドフルネスの考え方にも通じる考え方です。

その他、

「はじめに手をつけるべきは自分の内部で、それがなによりも大切だと。自分を知らずになにかの思想にかぶれるのは、いちばん危険なことだよ。」

「ものごとを理解するには沈黙が欠かせない。」

「いま、わたしたちはここにいるんです」と彼はよく言った

不幸というのはいつでもきまって女から女へ受けつがれていくものだ。
 ~ 空まであがらないうちにしぼんでしまう花火みたいな。

参照先

心のおもむくままに | スザンナ タマーロ, Tamaro,Susanna, 典子, 泉 |本 | 通販 | Amazon

・モカシン
p181
人を判断する前に、その人のモカシン靴をはいて三ヶ月歩くといい

p191
トーマス神父
「いま、わたしたちはここにいるんです」と彼はよく言った」
絵葉書
「カシの木の下にすわるときにはあなてではなくカシであれ。森にいるときは森であれ。人と生きるちきには共にあれ」
p207
はじめに手をつけるべきは自分の内部で、それがなによりも大切だと。自分を知らずになにかの思想にかぶれるのは、いちばん危険なことだよ。
p93
ものごとを理解するには沈黙が欠かせない。
p17
子供は老人はよく似ている。身体のまわりに目に見えない甲羅ができはじめる。
p48
不幸というのはいつでもきまって女から女へ受けつがれていくものだ。
ー空まであがらないうちにしぼんでしまう花火みたいな。



定年前後の悩めるサラリーマンの悩みに
いっしょになって、じたばたする
変なオジサンの しんちゃん です。

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