映画「君たちはどう生きるか」:感想記録
映画「君たちはどう生きるか」:感想記録
宮崎駿監督は1941年生まれでじぶんよりちょうど20歳年上です。
毎回これが最後の映画だといって、結局また次回作を作ってきているのでこの映画が本当の最後かどうかは分かりません。でも、年齢からいってこれが本当の本当の最後の作品かもしれません。そんな気持ちで観に行ったら、やっぱり宮崎監督の集大成、自叙伝的な作品でした。
作品のあちらこちらに今までの作品のモチーフ、キャラクター、風、空、飛ぶ、風でなびく草、服... と、監督の”好き”が散りばめられていました。
テーマは、生と死、自分の出自にまつわるアイデンティティの探索、彷徨い。あっちの世界(古い空から降ってきた何かが入口になって別世界との往来が出来る所から入る何処か)に誘われるように入っていく。そこで義母、義弟(母の体内にいる)の秘められた領域までたどり着き、そのこのルールを乱してしまう。
その先には、あっちの世界に行った曽祖父がこの世の世界を司るバランスを積み木の様なメタファーで取ろうとしている。それは、神に近いポジション。
物語の最後にはそのポジションを主人公:眞人に引き継がせようとする。そうすればこの世は安定を取り戻すと。しかし、眞人はそえを断ってこのこの世で周りの人達とやっかいな世界で生きようと決断する。
宮崎駿の目指してきたヒーロー、理想との決別の様だ。
芸術作品は何らかの欠損がある人がそれを昇華して何らかの表現ををしようとしているのだろう。
宮崎駿の憧れて追い続けてきたヒーロー:パクさん(高畑勲)との決別とも受け取れる。彼を突き動かす情念:リビドーの源は、母とパクさんだったのではないだろうか?
映画では眞人の母親は病院の火事で亡くなっている設定だが、実際の宮崎の母親は宮崎が幼い頃に寝たきりでほとんど世話をしてもらった記憶がないらしい。
普通はこの様な無意識領域のイメージは共有されることがないが、宮崎は創作者としてそれを作品として表現している。それはとてもナイーブでデリケートなことで、人には見せたくない部分だろうがそれをあえて可能な限り掘り下げて自己対峙した結果出てきた表現ではないだろうか。
映画はファンタジー色が色濃くて、あの世とこの世の境目が曖昧な境界線を行き来する様な設定なので、イメージ、情念が溢れ出る、漏れ出してくる感じである。
この映画をみると、この世の世界の全てが何かの役割をもって一つの物語を演じている様に思えてくる。
自分自身が演者であり同時に鑑賞者でもある。
この感覚は、ここのところずっとやってきたキャリアコンサルタントのカウンセリングロープレにも似ている。試験対策で沢山のロープレ(ロールプレイ:キャリアコンサルタント役、クライエント役、そして二人を観察しているオブザーバー役)では各担当の役割ごとに演じている。ロープレ終了後に皆で振返りをするのだが、これが様々な視点をお互いに聞ける得難い機会となっていた。
ロープレ自体は架空の設定でフィクションなのだが、慣れてくると、それが本当のことの様になってきていた。それは上達した過程であり、練習という設定を超えてリアルの面談に近づく行為だったのだろう。
普段、メタ認知を意識的にすることは難しい。
しかし、演劇とかロープレとかやってみると疑似体験してメタ認知が出来るようになるのかもしれない。
では、では。
定年前後の悩めるサラリーマンの悩みに
いっしょになって、じたばたする
変なオジサンの しんちゃん です。
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