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なぜ芸術は秋なのか

芸術の秋ということで、様々な地域の美術館やギャラリーで展示が目白押しの10月。筆者のように日々ボンヤリしていると観たかった展示が終わってしまいがちである。会期ギリギリでなんとか鑑賞できた3つを記録していく。

訪問した場所と展示は以下のとおり。

  1. 東京都現代美術館(清澄白河)ー MOTアニュアル2022、MOTコレクション

  2. SCAI THE BATHHOUSE(根津)ー 李禹煥

  3. MIZUMA ART GALLERY(市ヶ谷)ー 会田誠・曽根裕

それでは、順にご紹介する。

MOTアニュアル2022「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」(東京都現代美術館)

展示入口にて

現代の表現の一側面を切り取り、問いかけや議論の始まりを引き出すグループ展、MOTアニュアル。18回目を迎える本展では、大久保あり、工藤春香、高川和也、良知暁の4名のアーティストを迎え、言葉や物語を起点に、時代や社会から忘れられた存在にどのように輪郭を与えることができるのか、私たちの生活を取り巻く複雑に制度化された環境をどのように解像度をあげて捉えることができるのかを共に考えます。

東京都現代美術館ウェブサイトより
二階のサンドイッチにて

美術館内の飲食店「二階のサンドイッチ」で腹ごしらえをして、いざ鑑賞。名作椅子が話題のジャン・プルーヴェ展を尻目に入場すると、エスカレーターを上がったところから展示が始まった。

高川和也氏「そのリズムに乗せて」からスタート

まず何よりも良かったのは映像作品からスタートしていたところ。
大抵の映像作品は何時から何時まで流れているのか分からず、また展示全体の中盤で頭が疲れてきた頃に出没するので、途中でリタイアしてしまいがちである。
その点で「これから展示を見るぞー!」と臨戦態勢バッチリの序盤に持って来てもらえるのは鑑賞者として大変ありがたい。

その映像作品の内容は「あ○かん」「あお○ん」「あおか○」という感じ。

というのはもちろん冗談、いやある意味事実なのだが “不慣れなことに挑戦するときって照れたり格好つけてしまうよね、それって側から見たらめちゃくちゃダサいよね、でもそこでふて腐れずに格好悪くても惨めでも続けていくと、時に見えてくる景色があるよね“ というようなメッセージを感じた。

その映像作品の登場人物の1人は在日外国人であり、その後の展示でも障がい者や人種問題を取り上げた作品が並んでいた。また、言葉を要素に持つ作品も複数あった。

工藤春香氏「あなたの見ている風景を私は見ることはできない。私の見ている風景をあなたは見ることはできない。」より
良知暁氏「15:50」(関東大震災後「15円50銭」の発音で朝鮮人を識別し、暴行や殺害が行われたことに由来)

展示タイトルにあるとおり “正義はひとつではなく正解や不正解があるわけではないが、時には誰かを傷つけたり誰かに傷つけられたりするものだ“ ということなのだと筆者は解釈した。

MOTコレクション「コレクションを巻き戻す 2nd」(東京都現代美術館)

展示室入り口にて

今回は「読売アンデパンダン」展に工藤哲巳ら反芸術の作家たちが結集していた1960年代へと遡り、1975年に都美術館の新館が開館し、作品収集や企画展が本格化する頃までを、館の歴史や作品の展示をめぐるエピソードとともに辿ります。また75年以降、90年代にかけては、2つの美術館で開かれた企画展を手がかりに、リチャード・ロング、石内都、遠藤利克ら様々な作家たちとの関わりにおいて収蔵された作品に光をあてます。

東京都現代美術館ウェブサイトより

コレクション展は東京都現代美術館に行くと毎回観ているが、前回と内容が変わっておりとても楽しめた。アンディ・ウォーホルもあれば李禹煥もあり、上田薫「コップの水」も間近で観られてかなり豪華。

ちなみに毎回感心するのが「ガイドスタッフのつぶやきトーク」という解説文が要所要所にあるところ。作品リストと合わせて公式サイトでPDFがダウンロードできるので、ぜひ一度見てみてほしい。
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/mot-collection-220716/

宮島達男氏「それは変化し続ける それはあらゆるものと関係を結ぶ それは永遠に続く」

大好きな宮島達男氏の作品は撮影OKなのでパシャリ。

李禹煥「物質の肌合い」(SCAI THE BATHHOUSE)

ギャラリー外壁

この度SCAI THE BATHHOUSEで開催される展覧会は、これまで李の主要な個展で紹介されてこなかった、木、紙、土による作品で構成されます。1970年代から80年代にかけて制作された旧作を含むこれらの作品は、その後の作家の展開の嚆矢(こうし)として貴重なものと言えます。

SCAI THE BATHHOUSEウェブサイトより

もの派、ものは、モノハ…。何回唱えてもさっぱり分からない、筆者の大の苦手分野である。大自然の原風景や、はたまた造り込まれた枯山水ならいざ知らず、風景の中にどっしりと置かれた石や棒、みたいなものには正直「わ~、在るな~」としか思ってこなかった。
美術館のリーフレットや情報サイトの解説を読んでもやはり煙に巻かれた感があった。
そんな苦手な分野の展示を観に行くに至ったのは、アートへの向き合い方を再考したかったからだ。

筆者はチンポムやキュンチョメを始めとする「特定のテーマについて考えて読み解く系」が好きなのだが、最近は日々のあれこれに追われて考えるのを避けてしまいがちだった。
そこで、スポーツでいえばストレッチをしたり専門外の競技をやってみることで、可動域を広げたり新たな攻め方ができるのではないかと思い、今回の鑑賞に至った。

紙に等間隔で穴をうがいた作品
陶土が1箇所だけ掘られた作品

結果、よかった。勇気を出して行って本当によかった。
今回の展示作品は単純反復作業や一発勝負という特徴があったのだが、それらは筆者を始めとするサラリーマンの生き様を重ねて観ることも可能なのではないだろうか。繰り返される毎日、ミスが許されない仕事、あるいは無駄にしたくない貴重な休み。ギャラリーの公式サイトにも下記の説明があった。

陶土の作品では、「つくらない」ことによって、鑑賞者に空間や余白の広がりを強く意識させる構図が目立ちます。自己を抑制し、制作過程における火という外的な要素の不確実性を受容する態度に象徴される、他者や外部を受け入れる開かれた関係性は、李の制作において常に重要なものであり続けてきました。

SCAI THE BATHHOUSEウェブサイトより

極限まで削ぎ落として洗練された作品郡であり、我々鑑賞者の最大公約数ならぬ最小公約数とも言えるのではないかと感じた。

会田誠・曽根裕「-・-・ ・- -・ ・-・・ ・-- -・・- ・・-- -・・ ・・ --- ・---- ・・--- ----- ---・・〜侵攻の記憶」

ギャラリー外階段にて

「SUMMER 2022」に先駆けて開催される本展のメインタイトルは、モールス信号表記で「ニイタカヤマノボレ1208」、真珠湾攻撃を命じた暗号電文です。
(中略)
本展で曽根が展示するのは、実際に玉山の雪で作った雪玉をセラミックで象った《Snowballs》(2017)と、玉山の情景を描いた新作の絵画です。
会田誠は、自身の代表作でもある《紐育空爆之図(戦争画RETURNS)》(1996)を展示作品に選びました。 形のない記憶を彫刻にすること、現実を超越してしまうような人間の想像力の豊かさ、ふたりの作品は時代や世相に反応しながら、芸術の根源や義務、その発展の可能性を我々に提示します。 非暴力や反戦を唱える前に、まずは自分たちの加害の歴史にも目を向けるべきだという作家の誠実な態度は、 集団の侵攻の記憶を今一度認識する貴重な機会となるでしょう。

MIZUMA ART GALLERYウェブサイトより

こちらのタイトルは打ち間違いではなく、説明文にあるとおり暗号電文である。
とはいえ重い戦争の歴史は綴られておらず、それに芸術がどう向き合ってきて、これからどう向き合っていくべきかが示されているようだった。

会田誠氏「紐育空爆之図(戦争画RETURNS)」
同作品裏側(こうなっていたんだな、という発見)
曽根裕氏の新作絵画(玉山の情景)

作品数が絞られている代わりに作家直筆の長文が壁に貼り付けてあり、鑑賞者はあまり広くないギャラリー内で密にならないよう、また互いの鑑賞の邪魔をしないようふんわりと空気を読み合いながら鑑賞する形だった。
展示とは関係ないが、こうして空気を読み合える時「自分たちは動物ではなく人間なんだな」と思ったりする。

投稿タイトルについて

ここで投稿のタイトルに触れるが、なぜ芸術は秋なのだろうか。

今回の展示は全て1日で鑑賞した。ほとんど電車移動なので深く考えていなかったが、帰宅してから歩数計アプリを見たところなんと約2万歩も歩いていた。スタート時点で自宅から少し遠い駅まで歩いたこともあるが、それにしてもなかなかの運動量ではないだろうか。

そういえば美術館に行くと毎回かなり疲れる。ギャラリー1箇所くらいならそこまででもないのになぜ?と思うが、恐らくそれなりに大きな美術館であれば館内を回るだけで結構な運動になっているのだろう。加えて作品の数が多ければその分頭も使う。

ということは、身体も頭も使う美術鑑賞において過ごしやすい気候であることが求められるから「芸術の秋」なのか。
なんだかそのまんますぎる。別の解釈はできないだろうか。

今回の鑑賞で感じたのは「ちょっと疲れてるくらいの方が作品に共感できるかも」ということだ。実際に筆者は今回パートナーと絶賛ケンカ中でメンタルがグラグラだったし、歩きまくりで疲れていた。つまり「ちょっと疲れて」いた。

ありふれた感動ストーリーで涙しては「私、疲れてるのかな」なんて言うシーンをしばしば目にするが、まさにそのイメージである。気候や環境の変化で少しストレスがかかっている時の方が、無意識に心のよりどころを探したり、共通点を求めたりするのではないだろうか。

ということで「なぜ芸術は秋なのか」という問いに対しての筆者なりの答えは「いい感じに疲れやすいから」である。芸術の秋を満喫した後はしっかりと身体と頭を休めたい(ひたすら温泉に入るだけの旅行にでも行こうかな)。

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