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まじエモい

清少納言ちゃんの「いとおかし」を今ならどういうか?という始まり。

古典文学を学校で習う意味については賛否両論から否の方向性に流れているように思う。

曰く、使わない、意味がない、覚えてどうする?時間がない,そもそもつまらない…

学校は何のためにあるのか?実業に役立つとは一体なんだ?

仕事をするようになって確かに高等数学も物理も化学も古文も歴史も不要と言えば不要。しかしあれば役立つ時もあるといえばそう。

人間が何千年かけて創り出してきたアレコレを要らないからやらない,だけで切り捨てるのも良くないだろうし?それはまた別の話だ。

つまり自分はいとおかしという語彙を知ることで一つの観点を手に入れた。どう過ごしても1日は過ぎる。そこに季節の移り変わりをふと見つけた時のいとおかし。

人々の争いごとや、こどもの遊ぶ様子にふと思ういとおかし。

心の余裕のような瞬間。俯瞰図を捉える習慣。まじエモいという言葉から得られる視点はさらにまた新しい感覚のような気もする。

言葉っておもしろい。そもそも視点が先だったのかもしれないのに、新しい語彙に引きずられてある感覚を手に入れていくのだ。

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