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あとがきで会いましょう

最近また読書熱が再燃し、ベッドの周りには本が積み重なっている。

自己分析やエッセイ、筋トレ指南書に恋愛小説。その日の気分によって選ぶ本が違うので、読みかけのものも多い。


なかでも一番気に入っている本がある。

どのくらいかと言うと買って1ヶ月以上も経つのに、半分も読み終わっていない。

フレーズのひとつひとつが胸に刺さり、その余韻に浸るためすぐに空想の世界に飛び立ってしまうのでなかなかページが進まずにいた。

このような本には出会ったことがなかったので、じっくりと読める気持ちのときにだけ開くことに決めている。


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そんな本について、仕事の帰り道が一緒だったNさんに聞いてもらった。正確にはNさんだからこそ話してみたかった。
自分がいかに気に入っているか、本の世界観が際立っているか、希望と絶望のバランスか絶妙か。

Nさんはとてもきれいな感性を持っているなと思っていたので、もし読んだらどんな感想を抱くのだろうと気になってしまっていた。

ただ、すんでのところで買って渡すのは踏みとどまる。

本というのは自ら選んで購入し、最初のページをめくるところまでが醍醐味だと考えていたためだ。


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Nさんとは会う機会があればお互い読書の近況を話すことが多くなり、それがとても楽しみだった。
またどちらかと言うと無口な印象だったけれど、本のことになるとよく喋る姿がどこか可愛らしかった。

しばらく経ってもうっかり熱弁を奮ってしまったお気に入りの本が話題に出ることはなかったので、変なテンションで話してしまって申し訳なかったなと思っていた矢先に「そういえばね、例の本読みました。」と、少し言葉を選ぶように話してくれた。


わたしがこれはとても好きなんだろうなということがわかったこと、自分には理解しきれず著者のホームページを開いたりTwitterを覗いたこと。

そうして見つけた

「この本は100人いたら99人は意味がわからないと思うだろうけど、そうは思わないたったひとりた届くことに賭けた」

という意味合いのツイートに救われたこと。


自分が好きな本を読んでくれるということは、こんなにも嬉しくなるものとは思ってもみなかった。

同時に好みではない本を手に取らせてしまって悪かったなと、恥ずかしながら自分のことばかり考えていた。


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しばらくしてNさんに教えてもらった小説を読んでいるときだった。それはいままで出会ったことのない、どちらかと言うと避けて通っていたジャンルだったので真新しく楽しかった。

そこでふと、読み終わって理解できなかった本について調べていたというNさんのことを思い出した。著者の言葉を借りれば、100人中のひとりになったわたしと、おそらく99人に入ったNさん。

込められた意図を見つけて安堵した気持ち。

好みではなかった本にも真摯に向き合ってくれる姿勢に、深さと美しさを感じた。


人生の時間を重ねていくと、なんでも知っているようで、さらに理解した気持ちになっていることが多い。

自分の好みも固まってきて、新しい価値観はうとましく思えることさえある。そんな中で心揺さぶられる本との出会いはなんとも尊いものだった。

そして本について語らうNさんとの時間は、自分の宝物をそっと見せるようなワクワクと恥ずかしさが折り重なる瞬間だ。
感想や見解を話しているとき、わたしの中で「あとがき」が作られていく。


さて、今日はどの本を開こうか。

ベランダで揺れる紺色のシャツの向こうに、もう夏の空が広がっている。


いつもお読みいただきましてありがとうございます。