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懐かしい場所に行って、場所は縮み、時は伸び、かつての恋人は綺麗になった

今日は、5~6年前にはお会いした、とあるデザイン会社の経営者様との定期ディナー会で、表参道付近に行きました。
自分は1年前までその近辺に住んでいたのですが、約束の時間より少々早く到着したので、当時よく散歩したルートを歩いて、懐かしみ、思い出に浸ってきました。
(トップ写真は、帰り道に撮影したキャットストリートからの渋谷です。)

懐かしい、といっても単に懐かしいだけではなく、その当時の家で、生まれた時から一緒に暮らしていた愛犬と、今は離れ離れになってもう会えなくなってしまったので、特にその子との散歩の記憶を懐かしみました。

いつもの散歩コース、よく遊んだ公園、一緒に暮らしたマンション。
当時のマンションは、駅から徒歩11分程度でしたので、周辺を散歩しながらマンションで折り返しまた駅に戻れば、30分は経過するだろうと、頭で予想していたのですが、

実際は、20分しか経過せず、いつもの散歩コースは思いのほか道幅がなく、いつもの公園も遊具が思いのほか小さく狭く、
”場所は縮み、時間は伸びた”ような、不思議な感覚を味わいました
この現象に名前があるのかわかりませんが、もしご存知の方がいたらご教示ください。

このような体験は、思い返すと、過去にもあったような気がします。
かつて暮らした田舎を訪れ、通った小中学校、公園、ラーメン屋さんなど、思い出の地を散策すると共通して、「思ったより小さい」「思ったより時間が経っていない」と。みなさまはいかがでしょうか。

私は、この現象はてっきり、
「あの頃より、地球に対して自分の身体が相対的に大きくなったことで、大きさ、距離は縮み、時は伸びるように感じるのだ」
と考えていましたが、

身体の大きさがまったく変わっていない(むしろ縮み始めているかもしれない)にも関わらず、1年の月日の後に同じ場所に行ったとき、同じように大きさや距離は縮み、時は伸びるというのは、どういうことなのか。

自分は哲学者や脳科学者ではないので、頓珍漢な仮説というか、仮説とも呼べないような思い付きしか浮かんできませんが、思うに、

頭の中で 記憶にあるの場所を思い浮かべるとき、なぜか実物よりも大きく、長く思い浮かべてしまうのは、
その場所や物に対する思い入れが大きい/良いイメージを持っている
がために、そのイメージが肥大化する
のではないでしょうか。

非常にいい加減な話だと、自分でも思いますが、実は上記の原理で、逆の現象もあったような気がします。

自分としては最終的に嫌な印象を持った状態でお別れした昔の恋人、お別れした後に一度だけ会った時、思ったより綺麗な人だったのです。
この例は、対象が人(=変化するもの)なので、実際に以前より綺麗になったのかもしれませんが・・・

この例を挙げると、
要は、その対象物に対する、記憶の中での最終的な印象の善悪が、会わない・見ない間も惰性で拡大してしまい、実際に再開・再見すると、その対象物は、記憶の中で勝手に印象やイメージが肥大化していただけで実際はそうではないので、その差分がこのような現象を引き起こすと、非常に普通のことのように思えてきました。

このような、無意味な気づきを書いていくこともあるかもしれませんが、共感される方がいたら幸いです。

余談となりますが、
懐かしいもの、思い出は、人生における財産だと思いますし、老いて動けなくなったとき、残された楽しみは空想になり、その半分は思い出に浸ることになるような気が、自分はしています。

そういう思い出を死ぬ間際に持っていけるかどうか、どれだけ多くの思い出を持っていけるか、思うに、時々、懐かしいもの、思い出に思いを巡らせて、時々、記憶の最前列に呼び戻してあげる必要がある気がします。

80歳になったとき、それまでまったく思い出してこなかった、20歳のときの記憶が、急に鮮明に思い出されることは稀な気がしますが、その20歳のときの記憶を、1年ごとに思い出して、60回思い出せば、80歳のときにも、幾ばくか思い出せるような気がします。

なので自分は、過去に浸っている暇がないように思われる、経済成長、能力の向上ばかり求められる現在においても、そんな外のことは無視してひと呼吸おいて、過去の幸せだったこと、辛かったこと、後悔していることなどを
思い出すように心がけたい
です。今はそんな気持ちです。
明日になったら、これも忘れてしまっているかもしれませんが。

以上
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