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砂鉄採取場の調査 PART2

一枚の絵図をもとに、都合山というたたら場の砂鉄採取場所を確認しようという調査について、以前書きました。

日本の製鉄は、鉄鉱石が見つからないために、砂鉄を材料に使うという非常に苦労をした歴史があります。

それは大正10年まで続きましたが、そのおかげで純度の高い鉄を作ることができ、日本刀が進化したのです。

ひとくちに砂鉄といっても、海や川に流れ出た砂鉄はすでに摩耗しています。

そこで先人たちは、大粒で良質な砂鉄を採取するために、山から人力で砂鉄を掘り出すという無謀な作業をはじめました。

これが鉄穴流しです。

中世までは山に穴を掘り、土を運び出して川で流すという方法をとっていましたが、中世以降は山の中に水路を作り、そこに土を流すという方法になります。

この痕跡を探して、わたしたち鳥取県のいい年こいたおっさん連中(伯耆国たたら顕彰会という)は調査を続けているのです。

今回見つかったのは砂鉄と土を分離するための貯水槽でした。

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山奥に石組が残っています。

これを探すために、どんだけ山を歩き回ったでしょう。

そこは、あちこちが土砂崩れして、全体像がつかみにくくなっていました。

しかし、ここまで水を流してきた「走り」と呼ばれる水路跡が残っています。

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この急流を流すことにより、砂鉄を含む劣化花崗岩が粉砕されて砂と砂鉄に分かれてゆくのです。

さらに上流は2股に分かれていて、あちこちから砂鉄を流してきたことがわかります。

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そしてさらに上には切端と呼ばれる、砂鉄採取跡がありました。

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中国山地沿いの広大な劣化花崗岩帯を使って、気の遠くなるような苦労をして、先人たちは鉄を作っていたのです。


山奥でこんな痕跡を見つけると、なぜかわくわくしてしまいます。

ついにしっぽを掴んだぞという気がしてしまうのです。

自分でもなんだか「俺はおかしいぞ」という気がするのですが、まだまだ昔の痕跡を探す旅は続きそうな気配です。

次の砂鉄採取跡探索の会は12月4日に一般募集して行われます。

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