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教育格差って?

子どもが4月から公立中高一貫校に通うことになった。

新しい学校だけれど先進的な教育カリキュラムで、はっきり言って現在の日本の大学受験なんてあんまり意識していない感じの突抜感が気に入っている。英語には力が入っているから、その点だけは注目されがちだけれど。

「そんな恵まれた教育を受けられない子もいる。親の意識から生まれるそういう格差はどうしたらいいと思う?」という親友からの問いを受け、あらためて教育格差というものを考えてみた。

教育格差っていうと、貧富の差による機会の平等に注目がいきがち。でもそれ以外にも考える点があるような気がして、ちょっとまとめてみた。

1.需要側の視点

「格差」の話をするとき、基本はこの需要側、つまり子どもやその親がどう感じるかがポイントだと思う。受ける側が受けたい教育を受けることができるのか。受けられない場合はそれはなぜ?と考えたときに「格差」は意識される。

この「受けたい教育」というのが肝で、特に義務教育の間は親の意向そのものだろう。親友からの問いもまさに「親の意識から生まれる格差をどうしたらいいか」という話だった(さすが、賢い友人です!)。

結論から言っちゃうと、いろんな形の教育があっていいと思っていて、それをチョイスできるような社会になるのが一番だと思ってる。なぜなら、教育に求めるものが人それぞれ異なるから。で、その多様な教育のありさまを「格差」と思わないような状況になるのが理想郷。「郷」なので、たぶんそこには至らないと思うけど。

我が家は、従来の知識詰込み型の教育に疑問があって、でも大抵の学校ではそこは避けて通れないのが日本の教育制度だとあきらめていたところに、たまたま先進的な学校が近所にできたので狙ってみたらご縁があったという感じだった。(ただし我が家のポリシーで、通う本人が行く気にならないのであれば受検はさせない。最終的には驚くほどに本人が行きたがり、受検勉強も最後は本人の頑張りだった。)

でも、その先進的なカリキュラムを「そんなんで、6年後の大学受験は大丈夫なの?」と考える親御さんは実は多いようだ。どんな人がどこまで本気で書き込んでいるかわからない噂のネット掲示板などでは「あんなんじゃだめだろうから、塾に行くしかないんじゃないか」という人もいる。

つまり、我が家では望むスタイルの教育なんだけど、怪しいと考える人もいて、そういう人からするとこういう教育を受けられることを有利だとも恵まれているとも考えないだろうということになる。そういう場合は「格差」とは認識されない。(そもそもそれを怪しいと思うなら受検させたり入学させるのもおかしいと思うけど、そこにも実は潜んだ問題があるように思ってる…けど、このあたりは考えがまとまっていないのでまた別途書こう)

親が自分の子どもにどういう教育を求めるかっていうのは、親が受けてきた教育や親の職業など、親自身のバックグラウンドによるだろう。上段に出てきたみたいに、どんな大学に進学してほしい、とか、将来どういう仕事をしてほしい、とか、親の希望、いや「見栄」と呼ばれるものもあるかもしれない。で、それはもっと言うと「生涯賃金を考えたら…」という親の職業観とか。個人的に言わせてもらえば、子どもを自慢したいという見栄、子どもを別人格として潜在意識で認識できていないというのもあるのでは、と思う。

もしも望んでいるような教育が受けられないとすると、必死で受けられる機会を探す。その機会が絞られているならば(限られた教育機関でしか受けられないのであれば)、狭き門でもそこに入ろうとする。可能性を広げるために、塾に通わせたり家庭教師をつけたり。。。ここで初めて教育費をどの程度拠出できるかという資金力で差が生まれる。

と、ぐだぐだ書いたけれど、現状では「こういう教育を受けたい」という教育コンテンツよりも、学校の名前や大学への進学率で決定する人が多いのが現状だと思う。

2.供給側の問題

ずばり、公立か私立か。そしてどこであろうと教員の質。

「格差」を生まないようにするために機会の平等に立つのが公教育。だけれど、今回の公立中高一貫校のように、公立でもその教育内容に差をつけるようになってきた。これは、今の公教育では限界があると考えている自治体による精いっぱいの工夫だと思うし、そう考えて変えようとしてくれている人がいることはとてもありがたい。

そうなると、そういう先進的な気風のある自治体かどうか、つまり自分の住んでいる地域はどうか、ということになって、教育の機会に差が生まれるので「格差」は生まれる。

さらに、公教育の場合、費やせる資金に限りがあるから、あまねくすべての人に金のかかる教育はできない。先進的な教育をしている公立は俄然競争率が高くなってしまう。合格するためには、少しでも試験で点がとれるようにならないといけなくて、じゃあ、塾に。家庭教師に。と、ここでまた貧富の差が格差に結び付くのだろう。

教員の質は、公立だろうと私立だろうと、先生の資質や努力によるところが大だと思う。平均すれば給与を自由に設定できる(?)私立教員のほうがいい人材を集められるのかもしれないけれど、わが長女が通っていた中学校の公立の教員はとても優秀な先生だった。 

3.さて、日本は

2.の延長になるのだが、結局、将来どんな人材を育成したいのかという国の方針によるところが大きい。機会の平等は大事だけれど、今の教育に限界があるならオーバーホールしなければならない。けどそんな金は十分にはないから、一部だけ力を入れる、もしくは自治体の努力に任せる形になる。

ただ、中・高は大学入試に左右されるし、大学は新卒採用の動向、つまり雇用先の動向に左右される。雇用された先では、出身大学名で出世の速さもルートも決まるのであれば、大学さえ名のある所に入れば…ということになって、それに向けた高校教育になり、そういう高校に入ることを意識した中学教育になるだろう。

大学入試改革と言われているけれど、何をどうしたいからどうするのか。いつも不信感だけが募ってしまう。そして、「とりあえずどんな世の中でも生き抜けるようになってくれれば」と、わが子さえよければという考えになってしまっている自分がいる。

まとめ

親友の問いに答えるどころか、思いのたけを書きなぐってしまった。書いてみて、自分が思うのは「格差と考えるかどうかは人によって違う」、「機会が限定されればそれを得らえる人とそうでない人が生じるのは当然で、格差はどうしても生まれるざるを得ない」、「相対比較じゃなくて絶対比較で満足できる教育があるのが理想郷」みたいなところみたい。

ごめん、こたえになってなくって。