理解しあうこと への恐怖と拒絶

このnoteは私の日記みたいになってきた。公開日記。

日記帳につければいいのだけど、なぜ公開するんだろう。もしかしたら、誰かが読んで何かのヒントになるかもしれないからか?単純に自分の心の内を外に見せたいという露出狂みたいな欲望なんだろうか。

でも読まれてなくてもたいして気にしていないし、出来れば誰にも読まれませんようにみたいな気持ちもあるし、いいねがついたらついたで、「おお」と思うので、自分で自分がよくわからない。

前置きが長くなった笑。

前置きと同じような内容なんだけど、私は他者から理解される、ということにとても恐怖というか拒絶感を感じる。

そのくせ、noteに何か書いたりfacebookに何か投稿してみたりする。

facebookにいいねされたりコメントされるのが嫌なので、アカウント削除して繋がる友達を減らした後、また投稿したりする。誰にもいいねもコメントもされなくなったなあとふと寂しく思う。

そして自分で自分に突っ込む「あんたが自分でアカウント削除してまで友達減らしたんやないかい!」笑。

そうだったそうだったと思い、じゃあいいねゼロ件だったら自分でいいねしよっとそうしたらいいねゼロ件は防げるぜ!と思って自分でいいねしてみたりする。

そして自分で自分につっこむ。

「頭大丈夫?」笑。

私はそんな自分が好きなのだ。

でも、人に理解を示されると逃げたくなるのだ。

自分でも自分が何がしたいかわからないが、ただの天邪鬼かもしれない。

それから、私は人を理解したい、とは思っている。だからいろんな人や友達の書いていることや言っていることを聞いて、

「ふむふむ、ということはこの人はこういう育ちでこういう生活環境だからこう考えるのか~」

と納得したり、ずっとその人について考えたりする。

それであるとき

「そんなに理解してくれてありがとう、一緒にいると楽しい!」

と言われる。猛ダッシュで逃げたくなる。これは少年ジャンプごっこか?友情ごっこか?嫌だ、助けて!と心の中の自分が叫ぶ。

でも、その人はなんにも悪くない。わかっているから耐える。

うーんと

多分、理解したりされたりは、愛情の確認のためにすることではない、と思ってるんだと思う。

愛情の確認のためにわかりあい、歩み寄るのは本質じゃないような。いや本質かもしれないけれど、自分がそういうつながりあいが苦手だということかもしれない。いや、たんにシャイなのかもしれない。

だってさ、例えば私はリンキンパークが大好きで、リンキンパークの素晴らしいところはここで、楽曲制作のこういうところに個性が現れていて、メンバーひとりひとりがどういう役割を果たしていて、とか考えるのが大好きだ。だってリンキンパークは私に音楽や芸術の素晴らしさを教えてくれる大事な大事な兄貴のような存在だから。

でも、有り得ないけど、リンキンパークのマイクシノダに、

「こんなにわかってくれてありがとう、嬉しいよ!君の名前はなんていうの?」

って聞かれたら走って逃げると思う。

ダッシュで逃げて、その後できっと「サインくらいもらっとけばよかった」と何年も何年も後悔し続けると思う。

なんで走って逃げるんだろう?

多分、リンキンパークがただただ好きで考え続けて憧れ続けてきたのに、リンキンパークに自分が好かれようと思った瞬間から、

私のリンキンパーク愛が汚される気がするからだ。愛は、そっと心の中にしまっときたい。

わからないように、伝わらないように、でもどうしても必要な時だけ示したい。そんな人に私はなりたい。

結局まとまりがなくなってしまった。

理解したい、という気持ちはすごい。その気持ちは世界を変えるくらいの情熱になるときもある。

でも理解したい、という気持ちに別の動機が混じった時、人は何かを見誤る、気がする。


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