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悲しみよこんにちは

幼いとき、私が一番驚懼していたことについて書いてみようと思う。
それは死だ。
自分自身ではなく、祖父の。おそらく彼は、いちばん私を愛してくれた人ではないかと思う。昔から夜型だった私は、眠っている両親の真ん中でぱちくりと目を開け、とめどなく想像を膨らませた。その時、彼の死を想像して泣いてしまったことも少なくなかった。
その頃は元気だった祖父からすれば、孫が自分の死を想像して夜な夜な泣いているなど、そちらのほうが恐ろしかったに違いない。

その想像は、私が高校3年生の6月に現実のものとなった。祖父は直前まで祖母の買い物に付き合い、車を運転した。車から引き上げ、玄関に入ったところで倒れた。79歳だった。そのあとにきた夏がとても暑かったことを覚えている。
初七日やら四十九日やらを済ませながら、母がぽつりと「こんなに暑い夏を、おじいちゃまは耐えられなかったに違いない。だから夏がくる前に亡くなってよかった」と言っていた。

私は、一番恐れていた事態が起こったというのに、不思議と安堵の中にいた。よかった、これでもう、これ以上おそろしいことは起きない、と。
悲しみが私たちを飲みこみ、舵を失った船が右往左往するように、衝突したりときには座礁したりした。その度に果てしない議論がおこなわれ、結果として父と母は離婚した。

死は、心の奥底に小川をつくる。一度できた川は常にそこにある。喪の悲しみは、癒えるというよりも、その存在との共存に馴れてしまうということに近い。
絶望という名の流れがあり、たまに幅を広げたりせばめたりしながら、よどみなく流れていく。絶対的な悲しみとこの上ない安寧に包まれて、私はその流れを見つめている。悲しみと安寧は、相反するようで、実は仲が良い。
悲しみが深ければ深いほど、これ以上の底はないと安堵するからだ。

もうこんな思いはしたくないから家族はいらないと誓ったけれど、記憶力がなく学習能力もない私は、祖父の死から10年経ち、戸籍までも一緒になりたいとねがう男ができてしまった。
男のために寝床をととのえたり桃をむいたりグリーンカレーをつくったりと
かいがいしく世話をやく私を、17歳の私が笑う。もう傷つきたくないから、誰も愛さないと言ったではないか、と。お前はなんと意志の弱い女なんだ、と。

自分は意志が弱い人間だということに気がついたのは、4歳の時だった。
親戚の集まりがあった。会場は「だるまさんがころんだ」をしても、鬼に辿り着くまで5分ほどかかりそうなお座敷で、隣にこれまた給食室のような台所が併設されていた。本家の人間はお座敷で歓談と供される料理を愉しみ、そのほかの家の女たちが台所できびきびと働いた。複数人の集まるそこでいかにうまく立ち回れるかが、家の嫁としての力量を図る大きな材料になっていた。

私はお座敷にいる側の人間だった。子どもだったというのもあるが、祖父がその会の幹事を務めることが多かったからだ。母から「はい、ご挨拶を」と言われるまで、うつむいているような子どもだった。引っ込み思案で人見知りだったので、母の声に勇気を得て、小さな声で挨拶をするのが精一杯だった。
祖父は、誰かのお相手をしながらも私が元気でやっているかを観察し、退屈そうにしていれば自分のもとに呼びよせてくれた。そして、お酒をちょっとだけ飲ませてくれるのだ。「ほうら、おいしかろう」と。私は普段飲まない祖父が顔を赤らめているのがおもしろく、そこでやっと声を出して笑った。

母はたまに台所を見に行き、私はそれにちょこまかとついていった。親戚のほかの子どもには興味がなく、大人と一緒にいるのが好きだった。そして台所には次に出る料理が準備されており、いい匂いがした。女たちのお喋り、白い足首たち。
私の侵入に気がついたどこかの家のお嫁さんが、「いかんいかん、お嬢さん。あっちは飽きたね?庭に、鯉がいますよ。見ておいで。おばさんにどんなのがいたか教えてくださいな」と声をかけてくれた。台所にいるべき人間ではないと暗に諭されているのを感じ取り、「もうここには来ない」としぶしぶ座敷に戻るが、そこも私の居場所ではなかった。男たちはずいぶんと酒を飲んだのか膳を前に陽気になっており、みな一様に騒がしかった。そしてまた、母を求めてふらふらと台所に行くのだった。

いま、私は生まれた土地の、遠く離れたところで暮らしている。気に入った男を見つけ、戸籍まで手に入れてしまった。静謐な空間でシャンパンを飲み、その泡の音に耳を傾ける。祖父の死によって作られた小川のせせらぎは流れを絶やすことはない。私もいつか、その川に入る。

私は、甘やかな寝息を立てている夫の頭をなでるとき、小川を眺めているときと同じ気持ちになっていることに気がつく。いつか夫を失ってしまっても、祖父の時のように右往左往せず、毅然と別れを言いたい。その川が私を飲み込もうとしても。

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