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所有され、所有する

とろとろとした青い夏の夕方に、入籍した。

役所までは電車で行った。
ふたりで、平日の帰宅ラッシュの時間に、反対方向の電車に乗って行った。乗客はまばらで、あけすけなワンピースを着ていい匂いをさせていそうなお姉さんと、真剣な顔でスマホをにらんでいる(おそらくゲームをしている)おばさんがいた。こういうとき、本来ならば
「互いの会社への入籍報告はいつする?」
「両親へ報告はどんなかたちにする?」
こういうことを話すべきなんだろうけれど、なんだか気乗りしなくて、私のわるい癖が出て、おどけてみたくなって、どうでもいい話題ばかり振ってしまった。

駅についてもまだ決心が固まらず、アイスやさんでアイスを食べることにした。独身最後のたべもの。そこでは私が選ぶものは決まっていて、「キャラメルリボン」と「ストロベリーチーズケーキ」だ。
そのアイスやさんが私の人生に現れたのは、小学校2年生くらいの時だった。いちばん近いイオンに出店することになり、母が嬉しがっていたことを記憶している。
「お母さんが独身の頃、勤め先の帰りにいっつも食べよったとよ」
私が生まれたとき、母は専業主婦だった。
「お母さんのお気に入りはね、キャラメルリボンとストロベリーチーズケーキ。お母さんが好きなもんはゆりちゃんも好きに決まっとうけん、それにしときなさい」

初めて見るショーケースの中のアイスたち。それをお店の人が専用のヘラのような道具ですくい、見事な球体にする。球体はコーンに盛られ、私に手渡される。
初めて見る、てりてりと輝く地球。
「気をつけて持ちいよ。高いっちゃけん」
私はいまだに、その店では母の好きな味以外のものを選ぶことができない。

これから夫となる人と、向かい合ってアイスを食べる。子どもでも、大人でも、地元でも、東京でも、誰と食べてもちゃんとおいしい。母の好きな味。私もお気に入りの味。そのやさしさの残酷さ。夏の夕方につつまれて食べると、口の中だけひんやりとして、気持ちがいい。
すべてを青色に染めあげてしまう夕方。この瞬間は永遠の記憶になると直感する。そういうことが、人生にはほかにいくつあるのだろう。

役所では、気の良さそうなおじさんが細やかに届けを確認してくれ、
「ハイッ、問題ないですね。あしたの朝、戸籍課にまわしておきますから。このたびはおめでとうございます」
と、ふたりではじめての祝福をもらった。わたしたちの決めたことは、おめでたいことなのだ。私も今日はめでたい女らしい。

おもてに出ると夕方は終わり、宵の口になっていた。駅まで手を繋いで帰路に着く。こういうとき、何を話したらいいんだろう。婚姻届を出した帰りって。人生にそう何回とあるわけではない瞬間だと思う。
「あのおじさんさ、」
私がまた、おどけてみる。
「絶対いい人だよね、部下に好かれてると思う」
夫歴3分の男も、うん、絶対そうだよ、と応える。

この人の横顔にみとれてしまう。美しい流線。高い鼻。大きい目。まともそうに見える。既婚の、男。でも、こんな女にひっかかって、かわいそうだと思う。その瞬間、私はアイスやさんのすみに座って、母の好きなアイスクリームを食べていた子どもに戻る。
「わたしがここに座っていて、ごめんなさい」と泣いていたあの頃に。

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