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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想/永い思春期の終わり、大人への一歩

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観た。

はじめて『新世紀エヴァンゲリオン』に触れたのは、僕が幼稚園児の頃だったと記憶している。まだ右も左もよく分からなかった僕の隣で、当時大ブームを起こしていたエヴァンゲリオンの再放送を両親が観ていた光景を、断片的に覚えている。何事にもミーハーで、今思えば、どっちかというとヤンキー的な気質の両親がエヴァを観ていたということ自体が、当時の「エヴァ」ブームがどれほど大きかったのかということの現れだったのだと思う。

そして、十年ほどの時間が経過して、僕が中学生になった頃。

僕は人並みに進路や将来に悩む少年になり、人並みに家庭内の不和を抱えていた。父親との関係にわだかまりを感じ、人間関係に理由のない恐怖を覚え、いずれ訪れる将来を恐れた。次第に現実から逃げるように、小説や映画、アニメやゲームなどの物語に耽溺した。

そんな時に再び出会ったのが、インターネットで配信が始まりだした『新世紀エヴァンゲリオン』だった。

子供から大人へ、大人から親へ

新世紀エヴァンゲリオンは、内向的な少年である碇シンジが「エヴァンゲリオン」と呼ばれる汎用人型決戦兵器に乗り、世界の危機に対面する物語だ。

しかし実際にフォーカスされるのは、碇シンジの父親、ゲンドウをはじめとした周囲の人間との関係性で、ロボアニメの領域にとどまらない精神的な描写によるストーリー展開が話題になった。多くの矛盾や現代的な苦悩を抱えながら、未知なる敵と戦うシンジたちの物語に人々は共感し、社会現象と呼ばれるまでのブームを引き起こした。

そして、1995年の初放映からおよそ25年の月日が経つ。当時、エヴァンゲリオンに夢中になった少年少女たちは大人になり、社会人として仕事をしている。中には結婚し子を持ち、立派な親になった人もいる。かつて碇シンジやアスカなど、チルドレンと同じ視点でエヴァを見ていた人たちは、いつのまにか碇ゲンドウや葛城ミサトの視点で物語を見るようになっていた。

しかし、人はそのまま大人になることはできない。繰り返される出会いと別れ、度重なる成功と失敗、努力に挫折。人生の中で色々な出来事を乗り越えて、酸いも甘いも経験していくうちに、人は社会に対する折り合いの付け方と、自分の立ち位置を学んでいく。

中には、内側に子供時代の自分を抱えたまま年月が経ち、精神的に未成熟なのにも関わらず、社会的に大人と扱われてしまう人もいる。金銭的な自立が出来ていたとしても、子供に対しての向き合い方が分からないまま、親になってしまう人もいる。アダルト・チルドレンという言葉が話題になったり、子供の虐待死が社会問題として取り沙汰されるようになった。

子供はいつしか大人になる。けど、大人になった後も人生は続いていく。少年、少女を主人公としたアニメや漫画は多けれど、彼らのその後の人生が描かれている作品は、そう多くない。その点、シン・エヴァンゲリオンでは14年の時間経過を経た、登場人物たち各々のライフステージの移り変わりが描かれていたのが個人的に印象的な部分だった。

大人という「役割」

シン・エヴァンゲリオンにて描かれた「第3村」に住むトウジやケンスケ、ヒカリたちは、否が応でも大人にならざるを得なかった人たちの代表だ。

彼らはサードインパクト後の過酷な状況を生き延び、コミュニティの中できちんとした役割を得た、分別がある大人として描かれている。TV版本編でシンジを取り巻いていた大人たちの人間模様とは打って変わって、彼らの大人としてのスタンスは至極落ち着いたものとして描かれている。

サードインパクトの元凶となり、世界を崩壊に導いた諸悪の根源といっても過言ではないシンジに対し、トウジやケンスケ、第3村の人々は優しく接する。誰もシンジを責めるどころか、優しく接してくれる人々の振る舞いに戸惑いつつも、献身的な態度に、失語症状態だったシンジは少しずつ立ち直っていく。そして、エヴァに乗るためだけに作り出されたアヤナミレイも、生まれたての赤ん坊が歩き方を覚えるかのように、第3村の人々の交流を通じ、ひとりの人間としての人生を歩みだそうとしていた。

破滅した世界の中で、新しく生まれる生命の営み。トウジとヒカリの子供であるツバメや、お腹の大きな猫、農作物の実りある収穫。繰り返される死と新生。壊れたものは直すことが出来る。戦争や災害を乗り越えてきた日本人のメンタリティ=レジリエンスを証明するかのように、第3村では人々同士が支えあい、崩壊後の世界で懸命に生きている。昭和的生活に逆行しながらも、古き良き時代の面影を感じさせる生活は、無縁社会と呼ばれる現代とは真逆で、不思議と居心地の良さを感じさせられる。

喧嘩っ早いやんちゃ坊主だった鈴原トウジは人々を救う医者として、ミリタリーオタクだった相田ケンスケは、サバイバル知識を生かした便利屋として。委員長だった洞木ヒカリは子を生み育てる母として。14年の時間は少年少女に試練を与え、大人としての役割を与えたのだった。

もうひとりの主人公、葛城ミサト

エヴァンゲリオン本編にて「子供時代を抱えたままの大人」として描かれていたのが葛城ミサトだ。彼女はセカンドインパクト時に父を失ったことをきっかけに使徒殲滅を誓い、ネルフの指揮官として戦い続けていた。

父との因縁など、かつてはシンジと似た部分があると自覚していたミサトに、シン・エヴァンゲリオンの劇中では息子がいることが発覚する。サードインパクト発生時に死亡した加持リョウジとの子供だ。しかしミサトは、母として子供に対して向き合う事をせず、子との別離を選んでいる。夫であり父になるはずだった加持は既に亡くなっており、自分にはヴィレのトップとして人類の運命を背負う責務がある。母親の役目と世界救済のミッションを天秤にかけた結果、ミサトが選んだのは世界救済だった。

かつてのミサトは使徒殲滅を掲げ、シンジをエヴァに乗せながらも、シンジとの同居関係で、擬似的な母親役を演じようとしていた。旧劇場版の「結局、私はシンジくんの母親にはなれなかったわね」という台詞にあるように、結果的に疑似家族的な関係は破綻してしまう。年上の異性として振る舞うのか、母親として振る舞うか。あるいはネルフの指揮官として冷酷に接するのか。そのどれにも割り切れなかったのが葛城ミサトという人間だ。

常に葛城ミサトは矛盾を抱えた生き方をしていて、それは14年経過した状態でも変わらない。『Q』冒頭にて14年の眠りから覚めたシンジに対し、ヴィレのトップとしての立場から冷酷に接するも、脱走したシンジを処分する決断もできない。おまけに自らの責務を優先し、息子との断絶を図った部分を考えると、いずれ碇ゲンドウと同一の存在になっていたことも考えられる。

自らの甘さを自覚しながら過ちを繰り返す葛城ミサトもまた、大人になりきれないまま大人に、母親になりきれないまま母親になってしまった女性なのだということが分かる。

かつて、旧劇場版にてミサトは「大人のキス」にてシンジを無理やりに送り出した。シンジの母親代わりとして接する事ができず、年上の女性として唯一出来た、中途半端で不器用な送り出し方であった。

しかし、シン・エヴァンゲリオンにおいてのミサトは、初号機に乗ろうと決意したシンジを抱きしめ「いってらっしゃい」と優しく送り出すことが出来た。元々、ミサトは誰よりもシンジのことを想っており、シンジの行動が全て自分の責任であることを認めていた。セカンドインパクト以後も、亡き父親に対する想いを断ち切れなかったミサトだからこそ、シンジに二の轍を踏ませまいという想いもあったのかもしれない。自分が始めたことの責任は、自分で取らなければいけないと、自らの意思で初号機に乗る覚悟を決めたシンジに対し、ミサトが正面から向き合うことを決めた時。この時はじめて、シンジとミサトは本当の家族になれたのと感じた。

母親としての自分、ヴィレのトップである自分。シンジの家族である自分。その全てを割り切った葛城ミサトは誰よりも強い。ミサトは最後の最後に母親であることを受け入れ、子供の為の世界を遺すため、シンジを送り出し、自身の息子に対しての思いを吐露しながら、ヴンダーで死地へと赴く。

コミカライズ版エヴァの一巻における所信表明において、監督・脚本の庵野秀明は葛城ミサトをもうひとりの主人公だと捉えている。14歳の少年と、29歳の女性。ハリネズミのジレンマと呼ばれるように、互いに傷つくことをこわがっていた二人が、最後に家族として抱き合うことが出来たのが、エヴァンゲリオンという物語の最終作として相応しい関係性の帰結だと感じた。

ゲンドウ=碇シンジ

そして、最後に立ちはだかる諸悪の根源、エヴァンゲリオンという物語において、シンジにとって超えるべき壁である碇ゲンドウ。彼こそ、孤独だった子供時代を割り切れぬまま大人になり、父になってしまった男の象徴だ。

「第3村」で描かれた温かい昭和的生活とは真逆の描写が、碇ゲンドウの過去回想の中には垣間見える。今よりも他者との距離感が近かった昭和の時代。昭和的家父長制が支配する世の中、他人の家族との関係性を強要され、孤独を許されなかった子供時代。ゲンドウも鬱屈した思春期を経験したシンジと同一の存在であり、碇ユイの存在がいて、初めて救われた。だからこそ、彼を救う唯一の方法は暴力ではなく、己と最も近しい存在かつ、ユイの生き写しとも言える自分との対話なのだと、シンジは気づく。

使徒殲滅のために作られたエヴァを、対話の道具として使い、シンジはゲンドウとの対話を試みる。渚カヲルを目の前で失いながらも再び父の前に立ち上がり、ミサトに新たな槍を託されたシンジは、もはやかつて、父から目を背け、逃げ続けた少年ではない。他人の死を悼みながら、自分の足で立ち上がることのできる、れっきとした「大人」だった。

自らもシンジと同じく、自身の内面にだけ目を向け、子供と向き合うことから逃げていたことに気づいたゲンドウは、はじめてシンジと目を合わせ「すまなかったな」と謝罪の言葉を告げる。自分の内側に抱え込んでいた子供時代の自分を、シンジにより救われたゲンドウは、どこか清々しげに列車から降りていく。

もし、碇ユイが生きていれば。ゲンドウの欠けた心と孤独を、シンジとユイの二人で埋めてあげられたのかもしれない。絶望の中に降り注いだ希望を奪われたからこそ、ゲンドウは世の中全てを呪い、自らが神となり、ユイと再び会おうとしたのだから。

ゲンドウは最後に13号機を使い、初号機の中にいたユイと再会し、共にシンジを送り出した。それはゲンドウが父として出来た、彼なりの罪滅ぼしだったのかもしれない。

さよなら、全てのエヴァンゲリオン

旧劇場版の碇シンジと、シン・エヴァンゲリオンの彼は意図的に状況をダブらせて描かれているように思えた。旧TV版の物語の終盤、徐々にシンジを取り巻く状況は悪化していき、綾波やアスカだけでなく、トウジやケンスケ、最後に拠り所にしていた渚カヲルすらも失ってしまった。

エヴァに乗れと言われて乗ったが、うまくいかなかった。だから他人のせいにして、そしてまた失敗する。だからもう何もしたくない。旧劇場版では最後まで自分の意思では立ち上がれないまま初号機に乗り、目の前でアスカをエヴァ量産機の餌食とされる。そして絶望のままゼーレの傀儡となり果て、最後にはサードインパクトの引き金となった。

新劇場版においても状況は似ている。綾波レイを助けるために初号機に乗るも、意図せずしてニアサードインパクトの引き金となり、世界崩壊の責任の一端を担ってしまう。結局助けたはずの綾波の生死は不明のまま、目の前で心の拠り所だったカヲルを失う。全て、シンジが「エヴァに乗る」事がトリガーにて発生していることだ。

しかし、シンジは再び初号機に乗ることを望んだ。第3村でトウジが言った「自分がしたことの責任は、自分で落とし前を付けなきゃあかん」という台詞を覚えていたのか、シンジは再び、自分の足で立ち上がった。

シンジがエヴァに乗らなければ=もとい、ゲンドウたちが奇跡を求めなければ、エヴァは必要なく、多くの人間たちの人生が歪む事もなかった。エヴァンゲリオンとは元々ギリシャ語で「福音(良い知らせ)」という意味を示す。人類が、ヒトの身で成し得ない奇跡を起こすため、神の力を借りて作り出した紛いものの泥人形が、人造人間エヴァンゲリオンだ。

しかし、奇跡は自らの手で起こすことが出来るのだ。TVシリーズから劇場版、そしてシン・エヴァンゲリオンの劇中においても、葛城ミサトやリツコたち、その他人々の力を結集し、不可能と呼ばれた偉業を実現可能としてきた。エヴァンゲリオンに頼らずとも、人類は自らの力で奇跡を成し得ることが出来ると、ヒトは事実を以て証明してきた。

ゆえに、エヴァンゲリオンはもういらない。人が自分の手で歩き出すことの出来る世界の実現を、シンジは選択した。

他にも女であることに一線を引き、技術者としての職務を全うしたリツコやマヤ。式波シリーズとしての特性を理解し、シンジへの想いを振り切ったアスカなど、各々が成長し、新たなライフステージに進んでいることが、何というか、視聴者とシンクロしている部分で感慨深かった。

アニメや漫画の人々は、サザエさん時空よろしく、一生そのままの姿だと思いこんでいた。けれど「エヴァの呪い」から解き放たれた少年少女は成長し、大人としてどこかへと巣立っていく。旧劇場版(EOE)にて、エヴァを持て囃していたオタクたちに対し突きつけた現実描写とは打って変わって、シン・エヴァンゲリオンのラストの描写は明るく、とてもポジティブな印象を受けた。

1990年代の終わり。バブルが弾け、ノストラダムスの予言による世紀末思想が支配していた暗雲の世界の中、『新世紀エヴァンゲリオン』は産声を上げた。それから長い月日が経ち、かつてエヴァを心の拠り所にしていた人々は、今も自分の人生を一生懸命に生きている。現在も苦しい世の中が続いており、明日どうなるか分からない日常の危うさを感じつつも、人々は歩みを続けている。時計の針をわずかでも、進めようとヒトは自らの足で進み続けている。

エヴァンゲリオンの劇中で描かれていた新世紀=2020年の世界。90年代の人々がかつて夢見た近未来の世界に、僕たちは生きている。かつてオタクが犯罪者予備軍と蔑まれた時代から打って変わり、ニュース番組では人気アニメの特集が日常的に組まれ、アニソンが町中に流れ、企業とのタイアップが日常化された世界になった。

オタクというだけで蔑まれる世の中ではもうなくなった。かつて草葉の影に隠れ怯えていたオタクたちや、閉塞した世の中にわだかまりや違和感を覚えていた人々にとって希望とも言えたエヴァンゲリオンは、既に必要とされない存在となっていたのだ。90年代からゼロ年代へ、そして平成から令和へ。長い時が経つにつれ、いつの間にか僕らの心の中からエヴァンゲリオンという存在は薄れ、代わりにもっと大事な別のものが入り込んでいた。

ようやく、電車は駅へと辿り着く。かつて碇シンジだった僕らは、現実に手を引かれ、駅から外側へと向かっていく。現実は必ずしも絶望ばかりじゃない。誰しもが前を向き、歩み出すことが出来るという強い希望を込めたメッセージが、あのラストシーンには込められていたと思う。

さようなら、全てのエヴァンゲリオン。

そして、全てのチルドレンだった大人たちに。

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割り切れない思春期を胸に抱え続けていた僕にとって、シン・エヴァンゲリオンは、希望に満ちた物語だと感じた。

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