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映画『黒鍵と白鍵の間に』と昭和末期のバブルな夜


この映画は、ジャズピアニスト南博氏が書いた原作を以前読んでいたので、気になっていた。この監督やキャストでどうなることやらと思いながら観に行ったが、意外と味わい深い作品。というか、あの80年代の後半のバブルに向かっていく昭和最後の夜の雰囲気を知っているかどうかで感想はかなり変わるとは思うが。私にとってはどこか懐かしく切ない20代半ばを少し思い出してしまった。

映画のような当時の音大出の学生が、ついつい道を踏み外し、ジャズの世界にのめりこんでしまい、仕事としての演奏の場を求め、夜の酒場の世界に足を踏み入れてしまうことは、よくありがちなことだった。それだけ、ジャズへの登竜門は狭き道だった。
普通の大学の軽音学部やジャズ研系の学生だと、相当突出していないと、やはり踏みとどまり普通の会社に就職し、楽器は趣味と断念する。しかし、楽器に青春の全てを捧げてきた強者たちは、そう簡単に断念するわけにはいかない。しかし、「アートとしてのジャズ」を真剣に演奏し、かつそれを真剣に聴いてくれる場は、当時の日本には本当に限られていた。売れるまではなんでもする。当時大流行していたフュージョンを横目で見ながら、食うために酒場でのBGMを演奏し、限られた時間と場所でだけ本当に好きな音を出す。しかし生活が荒れ、演奏が荒れ、向かう方向が見えなくなっていく。そして夜の世界に沈み込んでいく。

この映画は、そんな彼らの物語と意味のない金だけはうなっていたバブルに突入していく時代の夜の世界の一部を戯画化した映画だ。

実は僕も当時大学でジャズを少しだけ探求していた。日々自分のアドリブを極めたいとレコードを聴きまくり、無数のフレーズを頭に叩き込んで、それを日々部活のセッションで試すという、修行のような時間を過ごしていた。たくさんのスタンダードナンバーのコード譜の山ができ、レパートリーも増えていった。

就活を迎える少し前の頃、ある先輩に「トラ」のバイトがあるからしないか、と言われた。当時最も尊敬していたベースのA氏だ。「トラ」とは業界用語で「エキストラ」の略。聞くと、大阪ミナミ千日前のキャバレーのビッグバンドのセカンドアルトの枠だった。果たしてできるのかと怯えながらも、楽器を持っておずおずと行ってみた。

そこはかなり大箱のダンスホールスペースもあるマンモスキャバレーだった。当時はくそ真面目な学生だったので、もちろん客としても行ったことなどない。行ったことがあるのは、流行りだしていたディスコぐらいだ。

指示があった楽屋口から入り、楽屋に入る。とりあえず挨拶をすると、いきなり楽譜の束を渡された。
「これやる予定だから、確認しときな」
少し強面の40代ぐらいのバンマスが、そっけなく言う。結構な量だ。これを初見でやれというのか?身震いがしたが、とにかく急いで目を通す。基本はベイシーかエリントン系の聴いたことがある曲。スタンダードもあれば、なんとサンバやマンボ、タンゴ、いわゆるチークダンス系の曲もかなりあった。楽器を出して、譜面を睨みながら出番までひたすらリフや自分のラインをカタカタやっていた。すると、隣にいた年季の入ったテナーの男が「僕はどこの大学なの?」と聞いてきた。つい真面目に答えると、「こんなとこで何やってんだ!人生あやまるからやめときな」と冷たい目線であしらわれた。しかしこっちは今それどころではない。演奏のことで頭がいっぱいだ。

ステージの時間が来た。30分ほどのステージが2回ほどあった。曲順は決まっていたが、
客からのリクエストが入ると、すぐ「変更!」と声がして、隣から曲名が伝わる。譜面を探す。ない!でも皆吹いている。私はうろたえるばかりだ。定番は一瞬でまとまるのだろう。しょうがないので吹いているふりをして聴き、2コーラス目からなんとかあわせたりしてごまかすしかなかった。

驚愕だったのは、2ステージ目の後半でサイドから「半裸のダンサー」が出てきた時だ。まあ、今にして思えばここは昭和の大阪ミナミのキャバレーだ。それに合わせてチークダンスを踊る脂ぎった親父とホステスがいた。ああ、俺は何をしているんだろう。少々先輩を恨んだ。しかしジャズは元々こういう空間から生まれたものだ。大学の部室や内輪のライブハウスで悦に入ってると、本来のジャズの持つ抑圧・鬱屈した中から出てくるダークな表現のパワーは理解できないよ、経験してこい、ということだったのかもしれない。

結局、そのバイトは3回ほど行って首になった。「お前は向いてない」「全然吹けてない」と言われた。まあ、当然の結果だったので「勉強になりました」と言って帰った。帰り、楽器を抱え、しばらく深夜の道頓堀をふらふらした。帰る気分ではなかった。その後やはり私も楽器を置いて、就職活動に向かった。あの時代の「食うための音楽」とはそんな甘いものではなかったのだ。

映画の中で印象的だったシーンがある。下町のキャバレーでダサいはっぴを着させられながら、それでも少しでも音楽的な演奏をしようとする彼。隣のサックスとの会話。
銀座のクラブに昇格し、グランドピアノでボーカルの歌伴としてスーツを着込んだ彼。既に立ち居振る舞い、口調が変貌している。そしてここでは音楽はBGMでありインテリアであると自覚していくメンタル。
ここでのグストボーカルの抵抗と彼とのやりとりはなかなか味わい深い。お客様が神様である昭和のクラブでの傍若無人な振る舞いとの葛藤。界隈の長老であるギタリストの男は生活のために夜の世界で音楽をするパーソナリティをコミカルに演じている。

またこの映画で、ミュージシャンたちのみならず、とにかく皆頻繁に煙草を吸う。これはなかなかリアルな描写で、この時代昼も夜も、店でも、職場でも、大学でも、煙草の煙は止むことがなかった。健康志向などどこ吹く風の、飽食、快楽の時代だ。今とは隔世の感がある。

某組長と彼の来店、そして彼にとってのある曲がキーワードとして物語は過去と現在を行き来する。ミュージシャン達の少しの反乱と解放、最後にカオスに向かわせるための「刺客」の来訪により、物語は見事に「破綻」して終わる。そう、この映画は最初から大団円などなく、強烈な戯画化と共に、夢の中に入っていく。バブルの時代がそもそも夢だったかのように。
原作を映像的に表現するには、やはりこの脚本・演出しかなかったのだろう。実際僕は何度か感情がこみ上げるシーンに出会った。それぐらいリアリティがあり、かつ切なかった。

音楽好きは必見の映画だ。ぜひ、音響のいい映画館で観ることをお薦めする。


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