-アメリカのキリスト教的コミュニティ‐ Netflixドキュメンタリー「我々の父親」を見て

この記事に書くことは私の主観であり、特定の宗教や集団を非難するものではない ということを先に述べておく。

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アメリカの宗教というと真っ先に出てくるのは「プロテスタント系キリスト教」だと思う。

プロテスタント系の人口は、アメリカの約半分を締めるのであながちまちがいではない。しかし、当然のごとくアメリカには「カトリック系キリスト教徒」もいれば「ユダヤ系」もたくさんいる。そのほかにも多くの宗教が混在している。その点を一度(私の中で)整理したくて、本記事を書く。

さて、この記事を書くきっかけになったのはNetflixの 我々の父親 というドキュメンタリーである。

患者にドナーのものと偽り、自分の精子を提供していた不妊治療のエキスパート、ドナルド・クライン医師をめぐるドキュメンタリー映画である。彼の遺伝子を持つ子供は現在94人に上るという。
彼がなぜドナーではなく、自分の精子を患者に提供していたのか明確な理由はわかってないが、映画の中で彼の動機は「Quiverfull movement」に基づくものであったのではないか と語られている。

「Quiverfull(クイーバーフル)」とは、子は神が与えし恵と考え、とにかくできるかぎり子供のつくることをモットーとするキリスト教原理主義集団である。その考えに基づき、彼は自身の精子を患者に注入し、生物学上の子を次々に生み出したのではないだろうか。というのが有力な説である。ずいぶんとイカれた話ではないか。また、彼は白人にばかり狙いを定めていた。白人の優秀な遺伝子を残すのが私の役目だ とでも言わんばかりだ。なんだそれは、「神」にでもなったつもりなのだろうか。

彼は熱心なカトリックであり、インディアナポリスのカトリック教会の教会員でもあった。ドキュメンタリーの中で被害者は、州司法省へ何度も申し立てをしていたにも関わらず、ほとんど相手にしてはもらえなかった。それはおそらく、彼が地元のカトリックコミュニティにおいて強い権力を持っていたからだろうと思われる。彼は教会のいわゆる長老であった。また被害者は同時に、司法職員のなかに「Quiverfull」の関係者も見つけている。彼が地元のカトリック教会において権力を持っていることは明らかだが、しかし、インディアナ州においてカトリック教会関係者であることが、そんなに有力なのだろうか?

インディアナ州の人口の60%はプロテスタントが占める。カトリックの人口はというと20%である。割合でいうとそんなに多くは感じない。しかし、「プロテスタント」という分類は、バプテスト派やルーテル派などあらゆる宗派をひとまとめにした呼称であり、各コミュニティはそれほど大きくないのだ。もっとも割合の多いバプテスト派であっても人口の14%程度である。
したがって単一宗教で考える場合、インディアナ州において最大の宗教はカトリック教会であるといえる。

以前、同じくNetflixでキーパーズというドキュメンタリーを見た。
メリーランド州ボルチモアのカトリック教区で起きた児童虐待とそれをめぐる殺人事件のドキュメンタリーである。結局のところその事件においても、発覚が遅れたのは犯人が「教会関係者」であったからだ。

徹底した政教分離の下で育った日本人の私には「宗教」が「政治」に影響するというのは、頭ではわかるが、感覚的にはとても分かりにくい。また、首都圏、核家族で育った私には「ムラ」的な感覚もとても理解しがたい。特定の考え方に基づく生活様式を強要されることや町のどこに行っても親戚に出会うような生活は想像するだけで、不気味ささえ感じるほどである。

アメリカは先進的で世界のリーダーだというイメージは、戦後70年経ったいまでもなんとなく日本人に刷り込まれたままである。私も(できるかぎり、そうならないようには努めているが)イメージに引っ張られて米国を「美化」してしまいがちである。「ムラ」的社会を不気味だと思う私には
「個人主義的」な米国がうらやましく思えるのだ。(米国の個人主義的思想はプロテスタンティズムに端を発する部分があるので、それはまた後日書こうと思う)アメリカは先進的だというイメージがまったく間違っているとは思わない。しかしそれが「アメリカ」のすべてではない。宗教に基づく(いってしまえば古臭い)「ムラ」的社会が根強く残っているのも事実なのだろう。というか、そもそも基本的にアメリカは「キリスト教の国」である。大統領就任時には神への宣誓を行うし、キリスト教が強く根付いた社会だから進化論を教える教えないが裁判になったりするのだ。
ここでは主に米国の「カトリック」について書いたが、これはカトリックに限ったことではない。例えばクークラックスクランなどが良い例である。彼らはプロテスタントである。

「宗教」が人生や行動を規定する、その感覚は特定の宗教に縛られて生きたことのない私にはわからない。わからないからこそ興味深いのだ。
同じ行動理念を持つものが集団を形成し互いに助け合うというのは人間として自然な行動である。それが「社会」を形成する。わたしにとって「宗教」に基づく「社会」の形成はとても不思議なことではあるが、それはとても「人間」の「人間らしい」当たり前の行動なのだろう と思う。(もちろん犯罪は許されないのだが)

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アメリカにおけるキリスト教のはなし、これもおすすめです。







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