見出し画像

パチンコ依存症との戦い

はじめに

「人って弱いの」
この言葉を何度もかみしめながら安心をえていた。私は弱い。
パチンコ依存症だった。
パチンコへ行ってお金を増やそうとする。家計のやりくりを楽にしたかったり、臨時収入で欲しいものを買うために。ただパチンコ店も商売だ。当たり前だが収支はマイナスになる。それを取り戻そうとまた行く。結果、使えるお金を失くしてしまう。その繰り返しで体調不良になる。分かっているのにお金が入るとまた同じことを繰り返してしまうのだ。プラスになっても次の日にはなくなっている。パチンコでプラスになるお金は夢のように儚くすぐになくなる。
 パチンコに行く時は、たくさんの罪悪感を背負っている。知り合いに見られたらどうしようという恐怖、お金が無くなるかもしれない恐怖、自分自身をコントロールできなくなったらどうしようという恐怖、こんなことまで越えてまでパチンコがしたくなる。ただの愚か者なのだ。分かっているのにやめられなかった。
私は、生活費にまで手を付けお金のことで息子に迷惑をかけてしまったり、怒らせたり、それはもう生き地獄だった。全て私の責任だ。タバコを吸ったりもしない、いつも不慣れな感じでパチンコ屋に入るバカ者だった。

きっかけ

 そもそもなぜパチンコを知ってしまったかというと、元夫のせいだ。
私は父にギャンブルをする男とだけは、結婚するなと言われて育った。
そのため、元夫にもそのことは話していたが、元夫は仕事が忙しすぎて休みがないと言い、ギャンブルはしないと言っていた。看護師をしている元夫とは、私が風邪をこじらせて入院した時に、猛アタックを受けこんなに自分を想ってくれるならと浅はかな気持ちで付き合うことになってしまった。私は大学生で全くの世間知らずなため、仕事の休みが取れなくて一か月に一度、夕方からしか会えないというバカな話を鵜呑みにし、よく働く人だなと感心していたくらいだ。完全に騙されていた。騙されたまま結婚し一年間夫がパチンコやスロットをしていることは分からなかったが、義父母と食事の約束をした時、待ち合わせはいつもパチンコ屋だった。そこに義父母がいて、夫もパチンコをする姿を私に見せるようになった。私は、当時パチンコ店にあった禁煙室で2時間とか平気で待たされていた。それでもいい嫁でいようと心がけていた。今思えば全てがおかしなことで、もっともっと怒ればよかった。こんなに私を粗末にして別れると言えばよかった。
一年後には、息子が生まれた。義父の夢は孫を抱っこしながらパチンコを打つことだった。以前は、子どもが入れていたのだ。息子は0歳だったがその時の記憶がある。パチンコが脳に与える影響は恐ろしい。夫はいつも自慢の3姉妹が欲しいと言っていた。女の子が欲しかったのだ。初っ端から自分の計画が崩れた夫は、私に冷たくなった。息子が産院から家にきてすぐに、「おれは仕事があるから別の部屋で寝る」と言って別室で過ごし、仕事の帰りも遅くなった。私は産後退院しても高熱が続き哺乳瓶さえ重く感じ持つのが辛かったのに、夫は全く育児放棄で私は夫への愛情もなくなった。
息子が幼稚園に通いだすと、夫は私をパチンコに誘ってきた。
「自分の欲しいものは自分で出して買って」
この言葉が衝撃だった。
産後に高熱とストレスが原因で精神安定剤と睡眠薬など服用するようになって体調が悪いためパートに出ることはできなかった。当時私の支えになっていたのは、素敵なライフスタイルをする方たちの雑誌で、その雑誌に出てくる生活用品だったり、身につけている服をみていることがとにかく好きだった。
夫との間に愛はない。私はせめて素敵なライフスタイルにしようと思い、自分のお金を作るためパチンコをしなければと思うようになった。素敵なライフスタイルと真逆のことをしている自分が情けなく恥ずかしかった。
女子大まで卒業させてもらってパチンコをしていることが親に申し訳なかった。だが当時欲しかった鉄瓶やル・クルーゼの鍋、憧れの方のブランドの服のため、お金を増やそうと必死だった。こうやってパチンコで出して好きなものを買うという思考回路ができ上がってしまったのだ。元夫とのつながりは、パチンコに一緒に行くことだけだった。

離婚

元夫はパチンコで出している私には気持ち悪いくらい優しかった。医療従事者で看護部長まで登りつめた男だが、私と息子を大切にしない人だった。私もとっくに愛情がない、触れられたくもなかった。それがさらに元夫を苛立たせていた。元夫は言葉だけでなく、怒ると私を叩いたり、口を塞いだり、精神的だけでなく、暴力を振るうようになり、警察を通して私と息子は強制的に避難することになった。

治らないパチンコ依存

ただパチンコで出して好きなものを買うという思考は治らなかった。私は仕事が休みの日で息子が遊びに出かけた隙にパチンコに行ってしまう。息子が帰宅する前に急いで帰ってシャワーを浴び、からだと髪に染みついたタバコのにおいを洗い流して消していた。
疲労感と息子への罪悪感で苦しくて何度も後悔をしながらもやめることはできなかった。
自分でも何が楽しいのかわからないが、勝手に足が向かってしまう。とにかくお金を増やしたい、大当たりしたい一心だった。もっと大切なことがたくさんあるはずなのに、やめられない。負けると酷く落ち込み、勝つとドラッグストアで普段買わない化粧品や髪のトリートメント、サプリメントなど買いたい放題買うことが楽しくてしょうがなかった。こうしてひとりになってもやめることができなかったが、息子にはバレないようにタバコ臭い自分が見つからないようにしていた。こんな母親私だけだ、と落ち込みながら続けていた。

精神福祉障害者になる


 数年前職場で酷い虐めを受け、私を責め続ける児童発達支援管理責任者とその仲間から、離れなければいけないと思い、本部にメールをしてから、走って逃げてその足でいつも精神安定剤などを処方してもらっている内科に駆け込んだ。また同じように自律神経失調症と言われ薬を処方してもらい帰宅したが、あまりにも辛く精神科を受けたいという思いが強くなった。偶然にも近所で10日程前に開院したクリニックがあり受診することができた。そしてそれまで内科で済ませていた薬ではなく、専門の薬を処方してもらえ、自分の心と身体を大切に考えるきっかけになった。
「うつ状態がかなり酷いですね」そう言われ
しっかり療養したほうがいいと言われた。
それから一年位は1日ほぼ寝たきりで過ごした。動くことができない。身体中の痛みや頭痛、病院の前の日は、緊張して眠れないなど今でもあるのだがとても辛かった。しかし、回復とともに、またパチンコをしたいという欲求が出てきてしまった。ユーチューブでパチンコ依存を治す動画をみたり、息子にも正直に話した。「パチンコをやめたい」と宣言した。息子は「ママならできるよ」と言ってくれた。今は、休ませてもらっている立場だ。絶対にパチンコに行くことはしてはならない。絶対に。パチンコをしていた時は家計もめちゃくちゃでいつもお金がなく自分で自分の首を絞めている状態だった。散々苦労してきてここまで回復した。精神福祉障害2級と診断されたことによって、私はこれまでどれだけ自分を大切にして来なかったのだろうと後悔した。

これからの夢


私は慎ましく静かに穏やかに暮らしたい。
これからは、少しずつ貯金をして旅行にも行きたい。長年会っていない友人にも会いに行きたい。いい事尽くめじゃないか。そうだ、夢を持とう。醜く辛かった日々をきれいな色に塗り替えるように1日を大切に過ごそう。
もうパチンコに行きたいなんて思わなくなった。自分の心をずっと辿っていって、私は何がほしかったんだろう、何を求めてパチンコに行っていたんだろうと不思議で仕方ない。
今も、依存症で苦しんでいる人はたくさんいるだろう、辛くなる。私にできることもあるかもしれない。それは、パチンコから離れて気持ちも落ち着き、お金の心配が少なくなったことだ。何かのきっかけで今苦しんでいる方の相談に乗ることができ、お役に立てられたら、私の生きる意味にもなる。これから自分も息子も大切に生きていこう。数年後パチンコ依存症だった日々を笑い飛ばせるように心と身体を労っていきたい。

#創作大賞2024
#エッセイ部門

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?