このごろ目障りな言葉
「言葉の乱れ」「日本語の乱れ」は、往古から時代を問わず嘆かれている。『枕草子』にも書かれている。それを書いた清少納言自身が、「生意気にも真名(漢字)など使って、嘆かわしいものだ」と、上世代から思われていただろう。
今回は、2011年の震災の頃までは見かけなかったが、ここ数年でやたらと増えてきた「どこか目障りな言葉」について、思いつくままに挙げていきたい。
1.「紐づける」
オンラインで、あるデータを他のデータと連携させることを「紐づける」と言い出したのは、ここ5~6年くらいだろうか。最初見たときは驚いた。何とも居心地が悪くなる言葉である。
全員が洋風の靴をはく時代になってからも長らく「下駄箱」と呼び習わしていたとか、ステンレスのパイプになっても「網棚」と言っていたとか、押しボタン式を経てリモコン式テレビが主流になってもしばらくは「チャンネルを回す」と言っていたとかの事例とは、本質的に異なる。
下駄箱や網棚やチャンネルは、実物が存在していた。人々は何十年もの間、それを生活必需品として使用していた。ゆえに実態がなくなっても、慣習的な言葉として使うほうが通じやすかった。
しかし、デジタルデータにもともと「紐」など存在しない。スマートフォンアプリが普及する前のホームページなどでは、他との連携を「リンク」と言っていた。外来語大好き国民なのに、そのまま「リンクする」では、何かよろしくないのだろうか。「結びつける」ならばまだ腑に落ちるが、それではだめなのだろうか。
いつ、誰が思いついたのだろう、「紐づける」なんて。この頃は鉄道会社や公的機関のサービスに至るまで、平気で「紐づけをする場合は…」「紐づけられた…」などと案内している。見かけるたびに情けなくなってくる。
案内文を書くみなさん、その”紐”の実物を見たのですか?
2.「知ってる?」
これは今、見聞きするたびにイラッとさせられる。相手の知識が乏しいことや、変化についてこられないことを見下しつつ、「教えてやるからありがたく思え」という優越感が漂ってくる。日本語としてもなっていない。最低限「知っている?」だろうが。少し前までは「ご存じでしょうか」と呼びかけていたはずである。
カジュアルと無礼は紙一重ということ、わかっていないのだろうか。たまたま一度使ったサービスのサイトCMで「知ってる?」を連呼されると、耳をふさぎたくなる。まして「御兎様カード」の押し付け事業に使うなど論外。
3. 「前のめり」
言葉自体は昔からあるが、メディアや一般人の文章で頻繁に見かけるようになったのは、ここ10年ほどである。事業計画とか、交渉ごととか、宣伝啓発において、やたらと熱心で積極的な様子をすぐに「前のめり」と言う。
もともとは「前方に倒れるように傾くこと」(「広辞苑」より)という、物理的な前傾現象を指す言葉だった。いつの頃からか、それを人間や組織の行動、心理にまで拡張するようになった。すると
「あんなに夢中になって、後先考えずにみっともない」
という裏のニュアンスが浮かび上がる。「冷笑の時代」を象徴する言葉のように感じられる。政治や外交を報じるニュースでこの言葉が堂々と発せられるたび、どこか感じが悪いと思う。
昔は「性急」「拙速」「焦り」などと言っていただろうか。そもそも、ニュースなど不特定多数に向けて発信する場ではあまり用いられない表現だったと記憶している。今はそれだけ、社会に余裕がなくなってきたのだろうか。
一般人の会話で、驚かされることを「焦った」という習慣は数十年前からあるが、それも上世代の眉をひそめさせる用法だった。最近は、好意的な意味で「前のめり」を使う人も現れているという。ほめられた!と喜ぶなかれ。それは傾くとか、倒れるとか、不安定な状態を示す言葉ですよ!
4. (秋における)「季節の進みはゆっくりでしょう」
メディアで解説する気象予報士に、特によく好まれる言葉である。私はそれを聞かされるたびに、イラッと来る。
私は大変な暑がり。かつては、少しでも気温が下がると暖房をつけようとする種族との戦いに明け暮れていた。これほど「暑い未来」を迎えるとは、思いもしなかった。いずれ「暑い、暑い…」とうめきながら、窒息しそうな熱い湿気にまみれて生命を終えるのだろう。
毎年8月後半の、日暮れ時刻が早くなったと実感する頃から10月半ばごろまで、毎日毎晩
「秋よ来い、早く来い!」
と、文字通り一日千秋の思いで、願いをかけている。ゆえにその時期に「季節の進みはゆっくりでしょう」と微笑まれると、神経が強く逆撫でされる。
春先や梅雨時の予報では、決して出てこない言葉である。「気温は、暖かいほど好ましい」という思い込みや、予報士自身の好き嫌いが、この言葉の裏に潜んでいないだろうか。
「本格的な秋の到来は、しばらく先になりそうです」ではいけないのか。ゆっくり進む季節は、異常のサインと考えたくもないのだろうか。
最近になって、「温暖化の影響を、もっとたくさん報道してください」という要望を見かけるようになった。それに真摯に答えようとする予報士もいらっしゃる。「季節の進みはゆっくり」のような、一見優しそうに見えて、実質無責任な言葉の横行にも、歯止めがかかることを期待している。
5. オリンピアン・パラリンピアン
COVID-19感染症が世界的な流行になろうとしていた時期のIOCバッハ氏やコーツ氏の発言は、聞くに堪えないものだった。人類が勝手に定義する、単に外国との武力闘争がない状態のみを意味する「平和」など、ウイルスの知ったことではない。その当然の摂理をわかりたくもない人たちだと、心底思った。アングロサクソン系によるアジア人差別意識さえも疑わせるような無神経さだった。
さらに失望したのは、かつての五輪選手のほとんどが「東京大会は開催して当然」とふんぞり返っていたことである。若い頃の私はスポーツ中継好きで、ニュースで結果を確認しないと一日が終わった感じがしない人種だった。五輪中継も冬季中心に結構よく見ていた。しかし、あの時の態度を目の当たりにして強い「五輪アレルギー」を起こした。ニュースで「オリンピック・パラリンピック」という言葉が発せられたら、汚職など付随するニュース以外はテレビを即消すようにしている。
日本人は異様なまでに「五輪好き」である。体育会系に甘すぎる。すぐにスポーツをやらせたがる。かつての「五輪スター」のうち幾人かは右派政党にスカウトされて、投票した覚えなどないのに議員先生となった挙句、採決時の員数合わせの駒のように扱われている。1964年大会の成功体験があまりにも強すぎて、その副作用からまだ脱しきれていないのだろう。
近年は五輪出場経験を持つスポーツ選手を「オリンピアン」などと称するようになった。聞かされるほうが赤面する言葉である。五輪がそれほど偉いのか。偉いというのならば、スポーツが苦手な一般人のことを、もっと尊重してほしい。
昔は五輪が終わるとテレビ番組も通常編成に戻っていたが、近年はパラリンピックまでしつこく中継するようになった。「あー、まだあるんだ…」と、ため息をつく。
6. 「人生100年時代」
2010年代に出現した言葉の中で、私はこれに最も不快感を抱く。「高齢者と呼ばれたい」の記事でも言及したが、少しでも長く働かせようとする為政者や、その取り巻きの魂胆が見え見えである。「そんなに早くリタイアしたいなど非国民」と、老後破産の恐れなどの例をひいて脅しつけているように見える。普段お世話になっている方がSNSでこの言葉を悪意なく使っているのを見かけると、何ともやるせない思いがする。
若い世代のフィナンシャルプランナーとやらが「今の高齢者はまだまだ元気!長く働きましょう!」などとあおっているが、彼らは「年を取り、老いていく」ことをまだ自分ごととしてとらえられていないから、屈託なく言えるのだろう。
「平均寿命が今年も伸びました」と嬉しそうに報道する人たちも、健康寿命との乖離や、労働や社会との関わりが心身を蝕むリスクについては、見ないようにしているらしい。
100歳を越える人が増えてきたことは事実である。びっくりするほど姿勢がよく、声の張りがある人も少なくない。素直に、尊敬に値する。しかし、そのような人は「老人界の超エリート」である。もともと遺伝子的に丈夫で、病気に対する抵抗力に優れ、大きなけがや事故に遭わなかったがゆえに、長く生き残れた人たちである。芸能界やスポーツ界における人気スターがほんの一握りにすぎないということと同じである。なぜ、才能にさほど恵まれない一般人に敷衍しようとするのか。
そもそも、長寿化は何が原動力になっているか。
食糧や水、電力などエネルギーの安定供給、ほどよく清潔な環境、医療や薬剤の安価な提供、知的活動に適した気候などであろう。それらの条件は、いつまでも当たり前のものとして存在できるのか。
ここ数年、生まれる子供の数が加速度的に減少しているという。とんちんかんな「少子化対策」を批判する声も多い。それゆえに「人生100年時代」などと言って、無理矢理”現役”に縛り付けようとしているのだろうが、そのやり方は早晩破綻するはずである。新たに生まれ育つ世代が減れば、統計の数字に出てこないところから、長寿化を支える条件が引きはがされていくだろう。路線バスの減便や廃業などは「炭鉱のカナリア」かもしれない。
多くの国民は重い経済的負担を背負わされ、格差は広がる一方である。いわゆる「リベラル」を見下し小馬鹿にしつつ、人に冷たい姿勢を是認する考え方の持ち主が主流になれば、多くの高齢者がふるいにかけられて、平均寿命は頭打ちを経て下がり始めるはずである。
さらに年々ひどくなる暑さ。いずれ食糧供給にも影響が出かねない。近い将来には、南海トラフ地震など大規模な災害が予定されている。(あえて「予定」と言う。)気象予報士は「ためらわず避難して、命を守ってください」としつこく言うが、災害の程度によっては、下手に命を守ったらその後いつ終わるとも知れない生き地獄が待ち構えているかもしれない。あくまで個人の見解だが、現在の社会体制や文化は、おそらく次の南海トラフ地震と運命を共にするだろう。
それらを勘案したら「人生100年時代」など、まず実現しないと見るほうが、ごく自然であろう。そのように無責任な言葉を広める暇があるなら、今の世を生きる人たちの日々の暮らしを、もう少し尊重していただきたい。