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【光る君へ】第14回「星落ちてなお」


赤い月、赤い橋

2024年4月7日放送「光る君へ」第14回を見た。
前半は藤原兼家の死を描く。
時に狡猾で憎まれ役でもあった兼家だが、強いリーダーシップと政治力で物語の序盤を牽引した。

兼家は息子たちを呼び、道隆を後継者にすると告げ、「今より父はないものと思って生きよ」と命じる。
座る時は何とか自力で動けたが、話し終えて立ち上がろうとするとよろけ、従者の肩を借りて、歌いながら去る。現代ならば車いすを使うところだろう。

剃髪して床に臥す兼家は、妾の寧子と道綱に看取られる。
ここで兼家が、百人一首にも選ばれている道綱母の有名な和歌

なげきつつひとり寝る夜のあくるまは
いかに久しきものとかは知る

右大将道綱母

を思い出し諳んじる脚本演出は温かい。大石先生から段田安則さんへのプレゼントのようにも見える。

涙ながらに兼家の手を握る寧子に、
「あれはよかったのう、輝かしき日々であった…」
とつぶやき、安らいだ顔を見せる。
ドラマで取り上げられる前、若い頃からの二人の関係が透けてみえるかのよう。

兼家は兄たちとの激しい権力闘争に神経をすり減らしながら政治家としての胆力を身につけていった。寧子は嫡妻時姫以上に心許せる相手だったのだろう。自分との恋愛模様を良いところも芳しくないところもひっくるめて日記に記そうというアイデアさえも面白いと思い、紙を与えたのだろう。

対して寧子は、時姫や他の妾たちの存在に気をもみ、長らく放置された悔しさを心の奥に抱えながら、道綱の成長や出世だけを生きがいにしてきたが、兼家の最期に立ち会え、自分だけへの愛を示してくれたこと、どれほど嬉しかっただろう。「道綱母」が「兼家の妻」に戻ったひとときである。私ももらい泣きした。しかしその心温まる画面は瞬時に、源明子女王の呪詛へ移る。

東三条殿に戻った兼家は三日月の夜、何かに誘われるように庭に出て、赤い橋までふらふらと歩く。明るい月の光に兼家の表情が瞬間和らいだが、やがて月は赤く染まりはじめ、顔がみるみるこわばっていく。突然の雷雨に打たれ、橋のたもとでこと切れる。

かなふみ

私はこの場面に「赤い橋」という歌(作詞:北山修、作曲:山木幸三郎、歌唱:浅川マキ、1970年)を重ね合わせた。私はリアルタイム世代ではないが、高校生の頃に買った「北山修作詩集」のLPレコードに収録されていた。「風」「あの素晴らしい愛をもう一度」「白い色は恋人の色」「さらば恋人」などのヒット曲が並ぶ中異彩を放つ、とてつもなく暗い曲。”赤い橋”が意味するところにすぐ勘づき、眠れなくなるほど怖くなった。中島みゆきさんのセルフカバーアルバムに収録されている「しあわせ芝居」「あばよ」などと共に、京都への修学旅行中ずっと思い返していた…うう、改めて文章にすると、何と暗い10代だったか。

北山修さんは京都駅近くで開業していた医師の家に育ち、幼い頃に遭遇した京都駅舎焼失(1950年)が原体験になっているという。赤い橋を渡って”あの世”へ行くという例えは都人にとって、東京で暮らす私の想像以上に身近なものなのかもしれない。

兼家は源明子女王の呪詛が効いたのか、赤い橋を渡らず絶命した。赤い橋を渡ることはただ「死ぬ」だけでなく「成仏する」比喩になっていて、数多くの人の人生を狂わせ恨まれながら権力の座についた兼家は成仏できなかった、という描写にも受け取れる。

朝が来る。橋の下は北山さんの詞と同じく水は流れていないが、咲いている花が青い花だったのはわずかな救いか。実家に帰り泊まっていた道長が気づいて、死後硬直が始まった父を抱きしめ、涙を流す。直秀の時とは異なるようで、根っこは同じ悲しみだろう。

道兼関連のシーンについては割愛する。

「まひろスイッチ」OFFである限り

呪詛は文字通り「人を呪わば穴二つ」。自身も相当のダメージを負うことを覚悟しなければ成就しない。明子女王は妊娠中に無理をしたため倒れ、そのまま流産してしまった。

道長はそんな明子女王に
「生まれいでぬ宿命の子もおる。そなたのせいではない。…しきたりなど気にするな。ゆっくり養生いたせ。」
と、優しく声をかける。明子女王はまだ硬い表情だったが、思いがけない温かさを感じて、視線を落とす。

本作の道長は「まひろスイッチ」がOFFになっている限りは優しく温かく、目配りも効く。それがひとたびONになる時の行動は視聴者ご存じの通り。明子女王が道長の愛情を実感して健康を取り戻した時、さらにその先、道長が権力の座についた時が案じられる。

一方倫子は、お嬢さま育ちの弱点があらわになった格好。彰子が初めて言葉を話した時、道長がどこか上の空で、一緒に喜んでくれなかったことが引っかかっていたのだろう。その時道長の中にある「まひろスイッチ」がONだったから、ということはまだ知らない。

この時点で倫子は、自分は(おそらく)安産だったことや、明子女王が道長に漢詩を送っていたと思っているがゆえに、一見優しいようであまり心がこもっていない言葉がけをしたのだろう。せっかくの好相性夫婦に微かな陰りがさし始めるか。

視聴者の中には「倫子さまは、あの漢詩をまひろが送ったということに薄々気づいているのでは?」と見る方もおいでだが、この段階ではその可能性に思い当たったとしても「正常性バイアス」が働いて、「まさか、まひろさんが殿に?そんなはずないわよね」と、疑念を自ら打ち消しただろう。

思いつめていた、いと

今回は為時家の世話をする、いとのふるまいも注目点。冒頭でまひろに「土御門殿で働く話は断られた」と聞かされて、もう限界と思ったか、為時に

「私、食べなくても太ってしまう身体でございますので、居場所がないというか…」

と自虐まで言って、暇乞いを申し出る。いとから見れば、やむを得ない事情があるとはいえ、為時がいつまでも娘に負い目を感じて、どこか腰が引けているように思えたのだろう。

為時は「この家は、お前の家である」と、ぶれずにいとに寄り添う。

その後、いとは兼家が亡くなったという報を聞いて、ひそかに満面の笑みを浮かべる。これで潮目が変わり、殿様再任官の目が出てきたと考えたのだろう。ところが為時は静かに涙を流している。

まひろはいとに

「うれしくても悲しくても涙は出るし、うれしいか悲しいかわからなくても涙は出るのよ」

と話す。
あの逢瀬を体験した時の実感を、いとへの説明に使うとは予想外だった。

まひろが土御門殿出仕を断ったのは、道長に会って自分の中の「道長スイッチ」がONになってしまうことを恐れたため。それに伴う破滅はもはや、自分と道長だけが負うものでなくなっている。

一方、自分を守るための”賢明な判断”のしわ寄せは、そのまま家のやりくりに苦心するいとに行ってしまう。まひろはいとの思いを、どこまで自覚しているのだろう。

腹を撫でる女王

藤原実資は、為平親王(村上帝の子、円融帝の兄)の娘・婉子(つやこ)女王を後妻に迎えている。婉子は愚痴を言いつつ酒を飲む実資の大きな腹を面白そうに撫でる。

婉子女王は花山院の女御だったという。本作における花山帝のふるまいを見ている人ならば、お渡りは一度あったかどうかで、ほぼ手つかずと想像がつく。”愛してほしい”欲を露わにするのも無理はない。ギャルっぽい人を演者にしているのも、そのあたりを醸し出すためだろう。

実資は婉子の勧めで、関白になった道隆の横暴ぶりを日記に書くと決意する。

父を受け継ぐ娘たち

後半は高階貴子の発案による、藤原伊周の妻選びとして開催された和歌の会からストーリーが発展していく。貴子は5年前に開かれた漢詩の会に参加していた、ききょうとまひろを講師として招く。まひろにとっては久しぶりの、お屋敷上がり兼バイト。やはり兼家が亡くなったことで風向きが変わりはじめたのだろう。道長スイッチを気にしなくて済むこともありがたい。

まひろとききょうはお互いの近況を話す。史実通り、清原元輔が赴任先の肥後で亡くなった(990年6月)と伝えられる。
ききょうは控室で「私たちはただのにぎやかしですわ、あほらしい。」と言いつつも、始まると参加の姫たちにお題を示し、まひろはできた歌を読み上げる。その姿は、漢詩の会の時の父親たちの姿に重なる。父の才や人となりが娘にしっかり受け継がれていると示す場面である。受領階級出身の貴子は、文化に力を注ぐ政を目指すのならば、身分にとらわれずに優れた才能の持ち主を引き立てるほうがよいと考えているゆえに、ききょうとまひろに目をかけているのだろう。

この場面、伊周は御簾を隔てて、ききょうとまひろの背後から会の様子を眺めていた。顔を合わせてしまうと『枕草子』の「宮にはじめてまゐりたるころ」の記述と矛盾してしまうからか?

知識階級の”施し”か

後日、ききょうが為時家を訪ねてきて、まひろが文字を教えていた農民の少女・たねとすれ違う。ききょうは「あのような下々の子に教えているの?何と物好きな。」と驚く。

「私の志は、文字を読めない人を少しでも少なくすることです。…されど、それ(貴族の何万倍もの民がいる現実)であきらめていては、何も変わりません。」というまひろに対し「私は私のために生きたいのです。広く世の中を知り、己のために生きることが他の人の役にも立つような、そんな道を見つけたいのです。」と吠えるききょう。

これを見て「おかえりモネ」の永浦百音と、先輩の気象予報士神野マリアンナ莉子の関係をちょっと思い出してしまったが…その例えをするのならば、辛い思いをしても想い人・菅波先生との恋を成就できる現代社会は、何だかんだ言っても恵まれていると思う。

しかし、まひろは壁にぶつかる。たねの父・たつじから

「うちの子は一生畑を耕して死ぬんだ。文字なんかいらねえ。俺ら、あんたらお偉方の慰みもんじゃねえ!」

と怒鳴られる。疲れ果てているたねは父に蹴飛ばされる。明らかに文字を習うほうが楽しいのだろうが。

これは現代にまで通じる、知識階級と肉体労働階級の間の深い溝である。現代まで解決できないテーマだからこそ、あえて本作で取り上げているのだろう。自分の身体ひとつで稼ぐ人たちはそれに誇りを持ち、知識階級のふるまいを「鼻につく」「上から目線の施し」と厳しくとらえる。その一方で、知識階級側に強いコンプレックスを持つ。現代でも

「ユーミンや松本隆など、エリートが作る音楽はたくさんの人に語られ、残りやすい。しかし不良たちから生まれた音楽は、それを語る言葉を持つ人が少なく、残りづらい。」

といった評を時折見かける。

対して知識階級側は、自分たちの暮らしが無数の人たちの労働の上に成り立っていることを、頭ではわかっていてもなかなか実感できず、油断すると見下すようなことをつい口に出してしまう。まひろは真心から知的水準の向上に努めたいと考えているのだろうが、周囲から見れば「哀れみによる余計な施し」に他ならない。永遠に分かり合えないものだろうか。

ビジョンなき執政

兼家が亡くなる前夜、安部晴明は「今宵、星は落ちる。次なる者も、長くはあるまい。」とつぶやき、従者を驚かせる。晴明から見れば道隆はもとより、伊周の生意気な態度もまた不安材料なのだろう。

道隆の政権は、現代で言えばアーティストが政治家も兼ねるようなものだろうか。「文化芸術を柱にした国づくりをしたい」と明確なビジョンを示せばまだよいのだろうが、良くも悪しくも兼家のやり方にとらわれたままで強引に進めてしまう不安定さが印象づけられている。直秀の遺志に報いたい一心で検非違使庁改革にこだわる道長もまた、過去の過ちにとらわれたままである。

このままでは、今回も詮子皇太后を苛立たせたラブラブの定子と一条帝にしわ寄せが行ってしまう。さすがに今回は定子もしょんぼりしていたが…。「さぶまひカップル推し」のファン同様、史実の前に何ともやりきれない思いがする。

次回予告もネタにする

本編が終わると次回予告で

「きれい…」

とうっとりするききょうの顔が大写しになった。それを見た視聴者は

「ききょうさま、ついに推し発見!」

と大盛り上がり。「#光る君絵」タグでもたくさんの作品が投稿された。次回予告の段階でこれだから、『枕草子』の世界が丁寧に描かれていること、祈るのみである。

※本稿のタイトル画像は「YUKARIさん」のイラストを使いました。

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