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【光る君へ】第13回「進むべき道」


アイドル登場

「光る君へ」第13回(2024年3月31日放送)を見た。

前回、第12回を以て主人公まひろと道長の恋模様、および藤原兼家の権力掌握への道筋の描写が完了。舞台は4年後の990年に移る。

冒頭から成年役(今回は14歳)の藤原定子が登場。
定子さまについてはずいぶん心配していたが、明るく優しく愛らしく、華のある人で安堵した。

藤原定子(NHK「光る君へ」公式ホームページ「君かたり」より)

というか、出た途端場の空気感が清々しく一新された。第9回で退場した直秀以来、久しぶりに現れた”アイドル”である。ここ数回、まひろと道長の関係が煮詰まって行くほどに重苦しくなる展開が続いていたので、まさに救世主。

早速一条帝に入内して、姉弟のように仲睦まじく戯れるシーンに進む。幼い頃に藤原道隆宅で遊ぶ場面があり、初対面ではないのだが、二人はその頃のことを覚えているだろうか。

お上が好きなもの…「母上、椿もち、松虫」。
”母上”が”そなた”に変わるのは時間の問題と、誰しもが思っただろう。ひたすら可愛らしく尊い二人のやりとりを見ているうち、私は遠い目をして、なぜかしら涙ぐんでしまった。清少納言みたい。

「椿もち」は当時の貴族の間で人気だった菓子。今は道明寺粉、砂糖、小豆餡で作る普通の和菓子だが、当時は蔦から採取される甘味料、甘葛(あまかずら)を使っていたという。

3月30日にBSで放送された特別番組「古都の春 光る君へ千年の桜」中継で、家の困窮により職探しに奔走しているはずのまひろが現代に転生して、貴重な甘葛を使った椿もちを試食していた。もっとも椿もちは『源氏物語』に登場しているので、転生前も口にする機会があったかもしれない。

『枕草子』では、甘葛シロップをかけたかき氷を「あてなるもの」(上品なもの)にあげている。小迎裕美子さんのマンガがよい味を出している。

定子のお召し物は明るい若草色。画面では品よく映り、初々しさを醸し出していたが、できれば紅梅色をお召しいただきたかった。(こだわる。)後述するが、黄色系は今回のキーポイントカラーでもある。

通信の秘密より美文字

第12回の終盤から、登場人物に宛てた私信を家族が見る場面が立て続けに登場した。

(1)まひろの弟、藤原惟規(ふじわらののぶのり)が百舌彦から預かった文に目を通し

「姉上、道長って誰?」
まひろの友人、さわが「シューッとした方?」と合いの手を入れると
「えっ、三郎?まだ三郎とつきあっていたの?」

(2)定子が「兄上(藤原伊周)の恋文、見つけてしまいました!」とはしゃぐ

(3)道長の嫡妻となった源倫子が「文箱から見つけた」と言いつつ、かつてまひろが書いた漢詩の文を本人に見せる

(3)はやや意味合いが異なるが(後述する)、通信の秘密も何もあったものではない。この時代、藤原行成など能書家が書いた文は、私信であっても周囲に共有され、美術品のように鑑賞する習慣があったという。

(1)では道長が行成の指導を受けて書字が上達して、それを見た惟規が「姉上に、きれいな字を書ける人から文が来た?!姉上に文を送るなんて、三郎みたいなもの好きがいるよ!」とテンションを上げたのだろう。

(2)で定子は「ちっともときめかなかったわ」と言っていたが、伊周の文字はそう悪くなかったと思わせる。

通信の秘密は19世紀から普及した概念だが、ごく最近まで形骸化していた。戦争中は逓信省が封書よりも料金の安いハガキの使用を推奨していたという。言うまでもなく、検閲に手間がかからないからである。私が若い頃でも、「文通相手からの手紙を親が先に開封した」などのトラブルはよく耳にしたし、私自身幾度も苦い思いをした。21世紀に入り、個人情報保護の考え方が徹底されるまで、通信の秘密を尊重する姿勢が育っていなかったと思う。

どこまでも冷酷

ラブラブの帝と定子を描いた後、道兼家の描写に移る。道兼はまだ幼い娘の尊子に「いずれは入内するのだぞ」と言い聞かせるが、尊子は怖がって母・繁子の足元に隠れる。画面は
暗い。栄光の道隆家と対照的な描写で、どこまでも道兼に冷たく救いのない脚本と思う。気の毒になってくる。

その後、道兼は藤原公任と親しくなる。公任は父・頼忠から「道兼を逸らすな」という遺言を受けているためだが、藤原斉信役の金田哲さんも視聴者も

「公任、そっちじゃないよ!」

の大合唱。やれやれ。

藤原繁子は懐仁親王(一条帝)の乳母で、『枕草子』にも「藤三位」として登場している。(円融院の御果ての年)
帝が仕掛けたいたずらに振り回される姿が綴られているが、清少納言が出仕する前、992年の出来事である。あるいは帝から直々に教えてもらったエピソードかもしれない。

悪役もグレードアップ

まひろと乙丸は市場を見て歩く。散楽チーム登場の際に使われたBGMが久しぶりにかかる。そこで幼い子供を「売った」として、人買いに連れていかれる母親を目撃する。人買いは証文を見せて(現代と同じようなカタカナは既にあったのだろうか?)「ここに書いてある」と凄み、母親を蹴り飛ばす。

人買い曰く
「ゴロゴロ生まれてくる子なんか、いらねえ親もいるんだよ!…俺はそういう親を助けてやってるんだ。」

時代劇の定番的場面ではあるが、おや、と思った。
少し前までは”絶対悪”として描かれた話である。それは「血縁の家族と同居で育つことのみが幸せ」という前提あってのものである。しかし、望まれない妊娠出産や、実親からの虐待は今なお後を絶たない。「毒親」という言葉もすっかり定着した。この人買いは、親に子供を可愛がって育てる意志があることを全く無視して強面で凄み暴力を振るう「悪い奴」だが、その一方で育てられない子供を引き取って感謝された経験も多く持ち合わせているのだろう。

この場面における問題は「幼い実子を手放すこと」よりもむしろ「識字能力の欠如につけ込み詐欺行為に及ぶこと」にある。まひろはそこに気がついて、子供に字の読み書きを教えようと思い立つ。

現代でも判断能力が衰えた高齢者相手に、細かい文字や難解な表現で不利な条項を書いた契約書に押印させて、実質的に金銭をだまし取る事例が多く報告されている。銀行などの金融機関まで手を染めている。このパートはきれいごとでは済まされないところまで描く、ある意味極めて現代的な進行と感じた。

精進、精進

記録が残されていないこともあり、”自分の使命を探す”まひろ関連のエピソードはしばらく停滞している。明るい性格のさわと仲良くなれたことがほぼ唯一の進展だろう。

一方、道長は陣定に参加。政治家としてスタートラインにつく。兼家の時代から中関白家の時代に移っていく頃で、こちらのほうに見ごたえを感じるのは無理もない。

民からの上訴をすげなくはねつけようとする道隆以下先輩貴族たちに臆せず、道長は「民なくば、我々の暮らしもありません!」と訴える。その様子を藤原実資が「おやっ!?」と目を輝かせながら眺めている。

上訴をいちいち受け付けていたらきりがない、という従来の方針は相応の事情があるゆえだが、それが政治の停滞と不信を招いているという現状を、実資は憂えている。そこに道長が新しい視点を持ち込んでくる。

道長は、まひろや直秀たちとのつきあいを通じて下々の民の暮らしぶりに触れているがゆえに、そこまで考えが及ぶ。

陣定が終わると、実資は道長に

「精進、精進。」

と声をかける。「がんばれよ」という意味である。そのまま提案を採用できる状況ではないが、そのまっすぐな初心を忘れずに、政治を深く理解してほしいという願いだろう。

前回(4年前)実資は愛妻・桐子を亡くし、赤痢に苦しみ、藤原宣孝からもらった”エッチな絵”にだらしなく頬を緩めていたが、健康を取り戻し、煩悩を頭の隅にしまっておけば賢くふるまえる人物である。

三人の”あきこ”

道長の私生活では、土御門殿で倫子と仲睦まじく暮らし、第一子・彰子が生まれている。「さぶまひ(三郎とまひろ)カップル推し」の若い視聴者さんにはお気の毒だが、この二人は相性のよい夫婦であろう。二人ともおっとりした性格ながら、物事の本質を見抜く力を備えている。倫子は人間的にもひと回り成長している。内裏から帰ってきた道長が心からほっとできる家になっているだろう。義母・穆子が大いに道長を気に入っていることも心強い。

まひろが妻になっていても優しい家庭にできたかもしれないが、激しい恋愛の末に結ばれて、妻は自らの高い知能を的確に使う方法がまだよくわからず、それゆえの失礼な言動も少なくないとなれば、その家庭はどこか見えないところで緊張感が漂う、心の底まではくつろげない空間になった恐れがある。道長にとってはこの選択で良かっただろう。

余談となるが、穆子・倫子・彰子の三代はいずれも90歳前後まで生きている。現代で言えば100歳越えに相当するだろうか。当時としては驚異的で、この家系は長寿の遺伝子を持っていた節もうかがえる。一方、道長や道隆は今で言う糖尿病で亡くなったとされていて、遺伝子的にはややリスクを抱えていたとも考えられる。

この時代の女性名は正確な読み方がわかっていないため、便宜上音読みにする習慣が定着しているが、ドラマにするならばそうも言っていられないので、現代の一般的な読み方を採用している。道隆家は「貴子=たかこ」「定子=さだこ」ですんなり行くが、道長家は姉・詮子、第二夫人・源明子、長女・彰子の三人いずれも「あきこ」になってしまう。

周囲の人は「皇太后さま」「高松殿」「姫さま」と呼び分けられるが、道長には「姉上」「あきこ」の二択しかない。やむを得ないとはいえ、ちょっと苦しい作劇である。

まひろが倫子を訪ねてきた時、幼い彰子は恥ずかしそうにして、母の袖に隠れていた。あなたは大きくなったらこのおばちゃん(失礼)を召し抱えて漢籍を教えてもらい、おばちゃんが書く長い物語を楽しみにするのですよ。

リアリスト晴明

兼家・詮子父娘の「大願成就の先にあるもの」も、今回のテーマであった。

陣定で兼家は、今でいう認知症のような発言をする。声に張りがなく、身体もしぼんできて、ひと目で衰弱しているとわかる。道長は驚き、帰宅すると「物の怪にでもつかれたのであろうか」と、本作の道長らしくないことを言う。穢れを忌む慣習を乗り越え、非業の死を遂げた友を自らの手で埋葬して、嫌がらせとして高御座に置かれた子供の生首の血を拭う胆力はあっても、加齢により培ってきた知性が奪われる現象にはまだ思いが至らなかったということか。それを聞いた倫子は、兼家より年長の父・雅信も老いたが愛おしいと話し、「お優しくしてください。」よくできた妻である。今のまひろに、それが言えるだろうか。

兼家の認知症はリアルに描かれている。周囲がかすみ、ぐるぐる回るように見える。徘徊する人の視界はそのように見えているのだろうか。東三条殿の屋敷は広いから多少徘徊しても迷惑にはならないが。

恐怖を感じた兼家は安部晴明を呼び出し「わしの寿命はどれほどだ」「わしの後継は誰じゃ」と問う。対して晴明は、陰陽寮の仕事は夜を徹して行うので朝は何も見えないと前置きしつつ、「そのお答えは摂政様の胸の内に、既にございましょう。そのお答えが正しいと存じます。」と、きっぱり告げる。「お気の毒ですが、私にできることはもう何もございません。」という意思表示である。

晴明の目にも、兼家には政治家としては無論、人間としてももう先はないことは明らか。花山帝退位をはじめ様々な術策に付き合ってきたからこそ、最後は自分に正直になろうと決めたのだろう。

陰陽寮は当時の感覚ではどこか怪しげな、不思議な力を持つ組織とみなされていたが、晴明は当時の水準で科学的な知見に基づいたアドバイスを行っているという自負を持つリアリストでもある。本人の耳に入ったかどうかはわからないが、数年前に散楽で”狐が化かしているようだ”と揶揄されたのは心外であっただろう。晴明はリアリストとして、科学者としての良心をもって、兼家に引導を渡したのである。

『平家物語』より200年近く前だが”盛者必衰”に気づいた兼家は「家の存続」に最後の望みを託そうとする。まだらボケの如く頭が働くようになった兼家は、道長にそれを強く言う。

身分制度と生得的格差

詮子が皇太后として内裏に来たら、一条帝は定子とかくれんぼをしていて、定子の衣の裾に隠れている。はちきれんばかりの二人の笑顔を見て、詮子は言葉をなくす。

小学館「サライ.jp」のサイトでは「平安の渡鬼(渡る世間は鬼ばかり)」と形容されていたが、ここでは単なる”姑の嫉妬”以上の深みが描かれている。

誰から教わるでもないのにみずみずしくやわらかなオーラをまとい、容姿のみならず言動やふるまいも優美で、会う人の心をなごませる、花のように愛らしい人はいつの時代にも生まれてくる。現代で言えば「恋愛強者」「コミュニケーション強者」でもある。定子はそう生まれつくことができた人である。

一方詮子は、ただひとり愛した円融帝に誤解されたまま別れざるを得ず、母を早く亡くし、父や兄と反りが合わず、家族愛に飢える人生を送ってきた。懐仁親王の成長だけが生きがいだった。

親王を即位させるという大願を成就させた先に待ち構えていたのは「わが子の心をいとも易々と奪っていく、どこをどうしても敵わない嫁」の出現だった。よちよち歩きだったあの子が、よもやここまで…とも思っただろうか。

コミュニケーション能力や、人に与える印象は生まれながらの資質が大きくものを言う。本人の努力や精進だけではどうにもできない”生得的格差・根源的格差”は確かにある。人間社会が作り上げた身分制度によるコントロールにも限界はある。詮子はそこに気づいてしまったのだろう。

自分が歩んできた人生の色が一瞬でくすんでしまったように見えたのか…私自身の歩みにもどこか重なる。

このパートの最後で、退出する詮子を目をくりくりさせながら見送る定子の姿がやや長めに映された。どんなことにおいても「持てる者」は「持たざる者」の痛みをなかなか実感できない。現代人でも解決する術のない”生得的格差”による痛みならば、なおさらだろう。

元カノの手紙

倫子はまひろを土御門殿に招いたついでに、「殿の部屋で見つけたのだけれど、大切そうに文箱の中に隠してあったの」と言いつつ、漢詩が書かれた文を見せる。かつてまひろが書いたものである。

倫子は「殿、私には一通も文を下さらず、いきなり庚申待ちの夜に訪ねて見えたの、突然。」と話して、源明子女王のほうに道長の愛情が向いているのではないかと疑っていたが、4年間で庚申の日は25回以上巡ってくるはずだから、やや無理があるセリフかもしれない。

ここで

「嫁が入る部屋に元カノの手紙を持ち込むなんて…そういうところやで、道長~!」

と叫ぶのは簡単だが、道長にとっては「まひろの望む世を作る」という初心を忘れず、何か事あれば立ち返るためのアイテムでもあるのだろう。まひろに直接会う機会はもう巡ってこないだろうし、彰子のことを思えば会うべきではないと考えているだろう。それでもなぜか会ってしまうのが本作なのだが。まひろが書いた漢詩は「志」を表したもので、惟規や定子が受取人より先に見た文とは意味合いが異なる。

”酷評”したのか

今回一番笑ったのはこのエピソード。

「光る君へ」第13回より

『枕草子』116段(2024年河添・津島訳注版)「あはれなるもの」に記された、藤原宣孝御嶽詣の際の「紫のいと濃き指貫、白き襖(あを)、山吹のいみじうおどろおどろしきなど着て」をそのまま映像にしている。nice idea! 本当にやるとは思わなかったが。

『枕草子』記載のエピソードが取り上げられるのは今回が初めてで、放送時間はSNSも大いに沸き立った模様。だが放送後に公式サイトで「清少納言が酷評」という解説が掲載されて、物議を醸したらしい。ファーストサマーウイカさんも場が荒れかけたことに対する見解とみられる投稿をしていた。役づくりに忙しい中、わざわざの心づかいである。

この段によれば、宣孝は990年3月末から4月初めにかけて参詣に出かけている。その後6月10日に筑前守が辞任したことに伴い、宣孝はその後任となった。(赴任は8月という)

「”げに言ひけるにたがはずも”と聞えしか」(なるほど、その言に違わぬことだと評判になった)とコメントした上で、「これは”あはれなる事”にはあらねど、御嶽のついでなり」と締めくくっている。

新刊本の解説では、珍しく「6月10日」と具体的な日付が記されていて、この月に清少納言の父・清原元輔が赴任先の肥後で亡くなったことを指摘している。

元輔は986年に肥後守を拝命して赴任したが、その時既に79歳だった。高齢だし遠国だし、無事に戻ってくれたら儲けものくらいに思っていただろうが、いざ訃報に接すると、悲しみがこらえきれなくなっただろう。元輔は年を取ってから生まれた末子の清少納言をことのほか可愛がっていたという。

何かとバタバタしていた頃、ド派手な装束で御嶽参詣をしたと評判になっていた藤原宣孝が肥後の隣国筑前守に任ぜられたというニュースに接する。日頃から美意識が高く、おしゃれに無頓着な人に厳しい清少納言には「えーっ!罰当たりかと思っていたら、ご利益があったの!」と、新鮮な驚きがあっただろう。同時に、父のことを思い出していただろうか。

自分としてはありえないふるまいだが、陽気で人を笑わせることに長けていた父ならば、もしかしたら同じようなことをしたかもしれない。少なくとも他の人のように、宣孝を悪しざまに言うことはなかっただろう。むしろ感心したかもしれない。そう思いを巡らせていくうち、これもまた広い意味での「あはれなること」ではないか、と気づいただろう。

後年、中宮定子から賜った紙を使って『枕草子』を書くにあたり、「あはれなるもの」の題を立ててまず高貴な若い男性の御嶽精進を上げたところ、御嶽詣でといえば宣孝の派手な格好の噂に父の思い出を重ねたこともあったわね、と不意に思い出して、内心クスクス笑いながら書き進めたのではないだろうか。

清原元輔が990年6月に、京に戻ることなく没したのならば、本作における登場は漢詩の会(第6回)のみとなるのだろう。もう少し出演して場をなごませてほしかったキャラクターゆえいささか残念であるが、『枕草子』のエピソードが今後たくさん取り上げられることに期待したい。「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」を実践したエピソードは、後年紫式部が彰子を教育する際に、元となった漢詩が掲載されている「白氏文集」をテキストに使ったという伝説もあるゆえ、ウイカ少納言一番の見せ場として作ってくれるだろうか。







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