光文社古典新訳文庫/『罪と罰』の面白さ
『罪と罰』。手に取った理由は、寒かったから……寒い→ロシアが連想されるから(?)。
個人的につけている読書記録を振り返ったら、前回も12月の頭に読了している。
(だから本当に寒いから読んだのだと思う)
前回は新潮文庫で、今回は光文社新訳古典文庫で読んだ。
この記事で一番伝えたいこと……。それは、
光文社古典新訳文庫、めちゃくちゃ読みやすかった。
難解な表現や言葉遣いを避けていて、読者に"読ませよう"という気概が感じられる。
ちなみに
「いま、息をしている言葉で」
↑光文社古典新訳文庫のキャッチフレーズ。
ルビ無しで読めないところがなく、シンプルで簡素。
私にはかなり合っていた。
(調べると、翻訳が忠実でないという声もある。アカデミックな読み方をする方はそう批評するのかもしれないが、一般人にはあまり関係のない話なのでは?と思う)
しかし、たとえ読みやすい文体であっても作品自体の難解さが読了を妨げてしまう要素を持っていて、『罪と罰』においてひとつ挙げるなら、登場人物の名前の覚えにくさ、だ。
ロシア人の名前は聞き馴染みがなく覚えにくい上に、特定の場面では愛称で呼ばれる始末……。
(初読の時は登場人物の整理に時間を割いたっけ)
でも今回は、かなりスムーズに読了した。
過去の記憶に頼ったわけではない。(むしろ私は記憶力がかなり悪い方で、だからこそ新鮮な気持ちで何回も読めてサイコー!と自負している……)
私の読了を助けたのは……しおり。
他でもなくしおりだった。
しおり。
光文社古典新訳文庫に挟まっているしおりには、このように主要人物が記載されていて、殊に『罪と罰』などの入り組んだ作品においてはかなり重宝される。
あれ?これ誰だっけ?と読む手が止まる時も、傍のしおりに目をやれば一瞬で解決するのでストレスがない。
て……天才すぎる、しおりに登場人物を記そうと発案した人……本当にわかり手だ……。
特許申請したほうがいいまである……。
海外文学は大抵2日3日かけて読了するのだが、作品自体の面白さと親切設計・簡素な文体の読みやすさとで、
全3巻を半日で読み切ってしまった。
(徹夜は苦手で、指折り程度しかしたことがないので私自身本当に驚いている)
目を充血させてまで読み続けたのは初めて。
久しぶりにめちゃくちゃ楽しい読書ができた。
これからも、光文社古典新訳文庫を本棚に並べていきたいと思う。
光文社さんありがとうございます。
余談も余談だが、なぜ『罪と罰』を面白く感じたのかを記したい。
それは、"純文学"と"大衆文学"の面白さを兼ね備えているから、だと私は思う。
私にとって純文学の面白さは、豊かな心情描写と人間公理が読めることにある。
名称のない感情がうまーく説明されていて、そうそう、こんな苦しみあるよね、と共感するのが楽しい。
心のしこりが言語化されることでカタルシスを感じる。
あるいは、作者の人生経験上大切な真理・公理を読み取ることで、自分自身の考え方が価値あるものに変わっていくことが好きだ。
で、話自体はそんなにおもしろくない。
(というより大衆文学に劣る)
例えば『金閣寺』にしたって、実際燃やすのは最後の最後で、燃やす場面を心待ちにしていた私は肩透かしを食った。
まあそれだけ心情描写などに重きを置いているわけで、寺が燃えるのを楽しみにしていたってのは、純文学的読書ではないのかもしれない。
対して大衆文学の面白さは……説明不要だろう。
本屋で手に取って、裏表紙のあらすじを一読、面白そうだったら買う。で、大体面白い。
私は主にミステリーが好きで、『十角館の殺人』などは、手汗でビチョビチョになりながら読み進めた。
どうなっちゃうの!?どうするの!?
今後の展開が、話の結末が、気になって仕方がないのが大衆文学だと思う。
言い換えれば、ネタバレ厳禁!が大衆文学。
『罪と罰』は(私にとっては)それらが良い塩梅で混ざっていて、かなり好きだ。
金貸しの老婆を殺害してからラスコーリニコフ(主人公)は自白するのか、それとも抗うのか……抗うのならどうやって罪から逃れるのか……が気になる。これは大衆文学的読書で、主人公の切迫した状況に没入感がかき立てられる。
(2回目なのに覚えてなかった……笑)
それ以外の随所には、登場人物による講釈が続き、今後の人生が豊かにならざるを得ない知見が散りばめられている。
マルメラードフの自分語りや、ラスコーリニコフの独り言、ルージンの演説、ソーニャとの掛け合いはもう……。
まさに純文学だろう。
だから私は『罪と罰』が好きなんだなーと。
(賢ぶっているようで、大っぴらに語るのは気恥ずかしい……noteで供養させてください)
追記
(でも小難しい本を、賢ぶりたいからという不純な動機からでも、読み切れるのなら私はそれでいい!)
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