見出し画像

チャイム


①革靴がつま先から溶ける。記憶の固執みたいに。想像力の馬が猛る。力強い蹄の轍ができる。そのどれか一つの中で、踏み潰されたミミズが悶える。
僕の生活はそういう具合に進んでいる。
深夜、コインランドリーのベンチで小説を読み終えた。つまらなかった。シナリオの構成はすぐに予測がつくもので、登場人物のセリフもクサい。物語らしい物語という感じで、何か嫌な感じがしたし、作者のニンも上手く表現できていないような、全てオリジナルなのにそこらじゅうにテンプレートな臭いが充満している作品だった。
そのせいか、洗濯物を回収した時の洗剤の香りが、より際立って嗅覚を刺激したように感じられた。
僕はわざとその本をベンチに置いたまま家に帰った。

②3日後の夜、コインランドリーに入ると、先客が居た。足を組んでベンチに座り、本を読んでいる。僕にはそれが誰なのか、すぐにわかった。チラチラと目を配っていると、あちらから声をかけてきた。
話をすると、その女性はやはり高校時代の同級生の白谷さんだった。彼女は僕のアパートの近くに住んでいて、洗濯機が壊れてしまったので、最近このコインランドリーを使っているのだそうだ。
「修理業者、早く呼べばいいんだけど、なんだか面倒でね。本当、こう言う所、私の悪い所なんだけど」
僕達は、高校時代の懐かしい話や、彼女が今読んでいる本が、僕がこの前置いて行った本である事について話した。
「この本すっごい面白いよね、よかったらこのまま貸してくれない?」
元々、僕は捨てるつもりで置いていたので、あげるよ、と言いうと、彼女は目を輝かせて喜んだ。そうして僕は、出て行く彼女を見送った。

③チャイムがなる。着席して、僕は水中でディナーを試みた場合の空想を始める。しばらくすると、先生に出席簿で頭を叩かれる。僕の斜め前の席の白谷さんが振り向いて、クスクスと僕を笑う。僕は恥ずかくて、彼女の方を見ることができない。
帰り道の河川敷で、ドラゴンフライが飛行する。
子供達の純真さから、一心不乱に逃げる彼らを、事もなげに見つめている時、これは夢だと気がついた。
この頃の僕はワイヤーを意識していた。僕の一本一本のワイヤーを。
彼女の歯形を想像しようとすると、いつも僕の心臓のワイヤーがもつれた。

そうだ。
直線が泣いている。
僕は意味もわからずにそこにいた。
直線が泣いていて、彼女の髪が艶やかに風に靡く。
僕は、出来る限り正確に直線を引こうとした。
それでもすぐに放課後が訪れて、この世には不可能な事が沢山ある事を僕に知らせるのだ。
もしも月が毎夜孤独な船乗りの夢を見ているとしたら、彼女はその事実に気が付いているたった1人の人間に違いない。
そのような憂いを帯びた眼で、僕を見て笑うのだ。

④3日が経って、1週間が経って、3週間が経っても、彼女がコインランドリーに再び現れる事はなかった。修理業者を、呼んだのだろう。時刻は夕暮れで、僕は自転車で家に帰った。回転する僕の車輪の影が、ゆっくりと楕円形に伸びていくのを、僕は悲しくて見ていられなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?