見出し画像

場面緘黙だったかもしれない私は、書くことで救われていた

小1の息子が"発達障害"かもしれない、そう思った私は発達障害に関する本を図書館で借りてきた。
その中で「場面緘黙(ばめんかんもく)」という精神疾患があるということを知った。

場面緘黙(ばめんかんもく)とは、特定の社会的場面(学校や職場など)で話すことができなくなる精神疾患の一つです。
典型的な例としては、「家の中では家族と問題なく話すことができるが、家族以外の人と、学校や職場で話すことができなくなる」という状態があげられます。

LITALICOワークス

あ、これ、昔の私かもしれない…と思った。

「口があるならしゃべれ」と誰かに言われた記憶がある。

習いごとで何度も「ここは何かな?」と聞かれて、喉の奥まで言葉が出かかっているのにうまくしゃべれず、先生に「まだわかんないか・・・ここはね」と何度も説明されたことを覚えている。

音楽の先生に私ともう一人女の子が呼ばれて、「なんであなたたち二人は歌をうたえないんだろうね?」と、問いただされた記憶がある。(厳しい感じの先生ではなかったが)
記憶があいまいなのだが、歌うことは好きだったはずなのに、音楽の授業では歌えていなかったようだ。

保育園のころは「リコの好きな人、一番目はまずリコでしょ~」というような、自己肯定感がものすごく高めの女の子だった。
それが、小学校に入ってからはズンと自己肯定感が下がった。
私には何でもできると思っていた。でも、何にもできなかった。
なんのとりえもなかった。自信がなくて、いつも陰に隠れるような子どもになった。

場面緘黙になったのは、そのせいかもしれない。


転機が訪れたのは小学校5年生のとき。
何気なく自分の思いを詩にして書いたものが、担任の先生にすごく褒められた。
本を読むのは嫌いじゃなかったが、自分で書いたものが褒められたのはこれが初めてだった。

その先生がたまに出す宿題に「がんばり帳」というのがあった。
ノートの1ページ分を、漢字でも計算でも、自分が好きなもので埋めてくるというものだった。
私はいつも、漢字の練習をしていた。
あるときふと思い立ち、新聞の切り抜きを貼り、読んだ感想を書いて提出してみた。
すると、また先生が褒めてくれた。
”書いたものが褒められる”それがとても嬉しかった。

うまくしゃべれなくても書くことで表現できるのだと気づいたこと、自分にもとりえがあるんだと気づいたこと、これが私の自信になった。


それからは、文章を書くことがとても楽しく、「がんばり帳」には私の思いをたくさん書いた記憶がある。
「がんばり帳」に書いた文章が、学校全体のお知らせに載ったこともある。

「私に私のままでいい」と思えたことで、今まではうまく表現できなかった音楽や図工の時間が楽しくなった。
"自分をもっと表現したい"と思えるようになったのだ。

音楽の先生からは「星野さん、すごくのびのびと歌えてる」と褒められたし、写生大会ではものすごく細かい描写をして「よくぞここまで」と図工の先生に褒められた。

文章を書くことをきっかけにして、私はずいぶんと救われたのだなぁと、今になって思う。
私の"得意"を見つけてくれた先生には、感謝しなくちゃいけないなぁ。

この記事が参加している募集

忘れられない先生

私は私のここがすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?