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深く傷ついた時、人は変わろうとする

この言葉は私にはとてもしっくりきます。

小さな変化は日々あるけども、どちらかというとそれは外からの刺激によって起こる変化であって”無意識”なもの。

しかし大きな変化の場合、快楽的な刺激ではなく、悲しみが起点となることの方が多いのではないでしょうか。


少なくとも私はそうでした。

それを強く感じるようになったきっかけは妻と別居を始めたこと。別居を始めた時のことはこのnoteに綴っていて、今でもたまに読み返しています。

妻の症状は少し落ち着いてはきたもののまだ不安定な状態でもあり、社会復帰には至っていません。妻のご両親から体調を伺いつつ、今はただ快復を祈るばかりです。

そしてこの出来事を通して、自分の無力感や人間的な面での器の小ささを痛感したこともなく、恐らく今後の人生において忘れることはないと思います。


自分自身を強く責める毎日から、ようやく一歩前へと進むことができた今振り返ると、このような悲しみも避けては通れなかったかもしれないと思います。

というのも、人には適切なタイミングで人間的な器を広げるための適切な試練が訪れるように思うからです。



皆さんにはこのような気持ちが湧いた経験はあるでしょうか。

傷つくことを恐れて敢えて自分には期待しない。
報われないことを恐れて努力をしない。
いつかなくなることを恐れて幸せを望まない。

悲しみを恐れていると人は楽な方へ楽な方へと進んでしまうもので、いつからかは分かりませんが私もこのような考えを持つ人間となっていました。

この考えを持ちながら過ごしていると傷つくことはほぼないのですが、一方で自分に期待しない分、自分を認めることができなくなったり、”自分”という存在を見失ってしまうことにも繋がります。


そのためそうなる前、つまり「これ以上自分を見失わなってはいけない」というタイミングで、人は変わらざるを得ないくらい大きく傷つく出来事に出会うような気がします。


冒頭にも話しましたが、人は傷ついて変わらざるを得ない状況になって初めて変わる生き物です。

逆に言うと、人は変化を放棄することはできないわけです。


変化を恐れ、自分を保つために自己肯定感を低くし、安全圏に身を置いていると実は逆に自分を蝕み、徐々に負のサイクルに入っていきます。

その現状を変えるためには、人は傷つく舞台にどうしても立つ必要があり、そしてそこに立つことで初めて、現状を好転させる変化という権利を手に入れることができるのだと思います。

つまり、幸せになるためには、時には傷つくリスクと戦う必要があるということです。


そう考えると、もしかしたら妻との別居も変わるための必然的な出来事だったのかもしれないと思えます。

お互い大きく傷つきましたが、最終的にこの悲しみが今後の私達の幸せに繋がるものになればという気持ちで今は一杯です。

もちろん悲しみを乗り越えるのにはエネルギーが要りますし、とても辛いです。

しかし人は深く傷ついた経験がある分、人の痛みも見えるようになりますし、人間的な深みにも繋がるきっかけになるのではないかなと思います。


この経験を活かすも殺すも自分次第。

歩み行く先に明るい未来があると信じて、今日も精一杯生きてみます。


ここまでお読みいただきありがとうございました。

ではでは。

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