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とにかく長めの自己紹介 〜キャリコンが如く、について〜


Xで「キャリコンが如く」として活動している私ですが、繋がりも広がってきたので改めて自己紹介を記したいと思います(自己理解を含めて、です)
長文ですが、ぜひご一読ください。

誕生~小学生一年生まで

1982年に神奈川県横浜市で出生しました。一人っ子です。両親からはたくさんの愛情を注がれて育ちました。とにかく落ち着きのない子どもだったようで、当時の映像などを見るとひたすら走っていました。
保育園に入園後も昼寝中に騒いだりやんちゃで先生方を困らせ、偏食が激しくて給食のほうれん草をずっと飲み込めずにそちらでも困らせたりと、なかなか手のかかる子どもだったようです。
その後市内の別の場所に転居し、別の幼稚園に転園します。
横浜市の外れの外れにある集落のような地域で、夜は全く車が通らないような場所で小学校一年生まで過ごしました。地域に住んでいる同年代の子どもが数えるしかおらず、毎日登園から帰宅まで、そして帰宅してからもずっと一緒に過ごしておりました。勿論家族ぐるみで仲良かったです。今思えば本当に狭い世界で生きていたのですが、とても居心地が良かったことを覚えています。今でもたまにその地域に足を運んで当時の思い出に耽ったりしています。
そのまま小学校に進学しますが、住んでいた地域からとても離れた場所にあり、毎日片道40分くらい歩いて通学していました。今思えばよく毎日歩いてたな…って思うほどの距離です。その小学校は一年生まで在籍し、母の実家が立て直すタイミングで祖父母も一緒に住むことになり、市内の別の場所に転居、転校します。

小学校二年生~六年生まで

市内の外れから、当時発展が進んでいた地域へと転居し、二年生から転入します。それまで住んでいた場所に比べて人の往来が多く(旧東海道沿い)、都会に来たんだな…って感覚がしたことは覚えています。とは言え、学校の周りは梨園に囲まれていて牧歌的な場所でした。実家は今もそこにあります。
落ち着きは相変わらずありませんでした。授業中に騒いだり、授業中以外も騒いだり、しょっちゅう悪ふざけばかりしていて、先生に怒られることがデフォルトな小学生時代でした。学校でも家でも怒られてばかりでした。勉強は嫌いではなかったです。足はそこそこ速かったので、毎年リレーの選手に選ばれていました。運動会では応援団長とリレーのアンカーやったりなど、目立つのが好きな小学生時代でした。ちなみに、当時の友人たちとは今も多く繋がっています。去年、五・六年時の担任の先生の還暦祝いをしたのですが、クラスの半分以上が来てくれました。来てくれたことも嬉しかったですが、それ以上に未だにそのくらいの人数の同級生と繋がりを持てていることが嬉しいし、誇りです。
サッカーと大相撲とZARDと幽遊白書が好きになったのがこの頃です。

中学生時代

サッカー好きだったので中学でも続けようと思ったのですが、何故か吹奏楽部に入ってしまいました。これは未だに人生で悔やむことベスト10に入ります。当然真面目に練習するわけがありません。それでも一年生の頃はそれなりに練習だけは行っていましたが、二年時はほとんど行かなくなり、そのまま強制退部です。未だに楽譜は読めません。
並行してテニスのクラブに通い始めました。こちらも別にやりたくて始めたわけでなく、持て余した母親が強制的に入会させたというのが本当のところです。とは言え嫌だったわけでもないので、事務的に毎週通ってはいました。上級コースまでは進んだ記憶がありますが、この頃にもう少しちゃんと真面目に練習しておけば…という思いはあります。これも人生で悔やむことベスト10に入ります。
勉強は嫌いではなく、テストの点数もまあまあ良かったです。ただ、提出物も出さないし、相変わらず授業中にふざけてばかりいたので成績はあまりよくなかったです。
この頃は人見知りもしなかったので、学年のほとんど全員と会話したことがあると思います。男子にいたってはほぼ全員と遊んだことがあるような気がします。女子も仲良かった子が多いです。モテていた自覚はありません。
中学時代の友人も、繋がっている友人が多いです。そういう意味では、未だに後悔することがある中学時代ですが、かけがえのないものを得た三年間だったとも言えます。
サッカーは変わらず好きで、松本恵(現在の松本莉緒)の大ファンになり、小遣い貯めて買ったNIKEのAIRMAXを壊れるまで履いていました。

高校時代

藤沢市にある男子校に進学します。志望校ではありませんでした。共学で、国際色豊かな進学校を第一志望にしていましたが、叶わずに進学した学校です。寺の中にあるので仏教色が強く、校則も大変厳しく、土曜日も休みじゃないし、挙句駅から遠いという、志望校とはすべてが真逆の学校に進学したことに絶望しながら入学したことを覚えています。先生もほぼ全員男性で、めちゃめちゃ怖かったです。電車の中で共学の同級生を見ると眩しく見えて、話しかけることすら怖くなる時期もありました。
成績は悪かったです。地の底まで落ちました。勉強も全然しなかったです。特に英語が(中学までは嫌いじゃなかったし苦手でもなかったのに)全く分からなくなり、大嫌いになりました。
そのくせ英会話には毎週通い、高校一年時の終わりにニュージーランドへ短期留学をしました。現地の家庭にホームステイをしましたが、最初の三日くらいは完全アウェーの状況がものすごく辛かったことを覚えています。ただ、若さゆえの順応なのか、四日目くらいから急に家族が言っていることがなんとなくわかるようになり、英語で夢を見るようになりました。帰国する頃には、もう少し滞在したいな…なんて思うほど心境に変化があったことは収穫だったのではないかと今でも思っています。ただ、英語の成績が悪くても外国人と話せるとわかった私は、帰国後に英語に勤しむどころか却って勉強をしなくなり、苦手度がどんどん加速していきました。
こうやっていざ書き出してみると、高校時代の思い出でトピックになるようなことがあまりありません。男子校だったこともあり、ここでは書けないような馬鹿な事をやってきた数々のことくらいしか記憶になく、部活にも入らず、前述の通り勉強もせず、何やっていたのか未だによくわからないです。ただ、大人になった今思うことは、厳しいその学校で仏教の教えや礼儀作法を身につけられたことは本当に良かったと言うことです。今では母校が大好きです。
ちなみに大学受験も見事に失敗します。結果的に英語が大きく足を引っ張った形になります。今振り返れば、自身の努力も全然足りませんでした。これも人生で悔やむことベスト10に入ります。
この頃もサッカーは好きで、友人と流行り始めていたフットサルを始めました。野球の強豪校だったこともあり、本格的に野球が好きになったのもこの頃です。あとは、ラーメンを食べ歩いてばかりいました。湘南地区の有名店は学校帰りに一通り行った記憶があります。

19歳

高校を卒業して、進学も浪人もせず、なんとなくUNIQLOの準社員になりました。家の近くの店舗がオープンするということで、いわゆるオープニングスタッフです。朝8時から夜11時まで三日間働いて一日休んで…というサイクルで働いていました。規模が大きい店だったのでスタッフはたくさん居ましたが女性ばかりで、男子校出たての自分にとってはそれが辛かった記憶があります。それでも半年くらい続けていた頃、家に「ニュージーランドに留学しませんか?」的なDMが届きます。なんとなく試験を受けたら、合格しちゃいました。後から聞いたところによると、「筆記試験の点数は酷かったが、リスニングとスピーキング力があったので合格」だったとのこと。それが2001年の夏頃の話。2002年の春にはニュージーランドに発つということで、UNIQLOを辞めて家の近くの自転車店でアルバイトをします。バイトして、その後職場の人と遊び行ってまたバイトして…みたいな生活を送っておりましたが、今思えばあの頃楽しかったなぁ…。

20歳

2002年の4月、ニュージーランドに発ちました。全寮制の学校で、割り振られた寮の部屋に入り、なんとなく学校が始まりました。最初のうちは見るものすべてが新鮮で、ものすごく楽しかったです。ただ、それも長く続きませんでした。寮は三食提供してくれるスタイルだったのですが、それが本当に美味しくなくて、体から精気がどんどん無くなっていきました。そこから授業に行かなくなりました。夜になると街のビリヤード場に行って現地の人とビリヤードして明け方帰宅し…みたいな日が増えてきました。強烈なホームシックを感じたのが6月頃です。そう、時は「日韓ワールドカップ」。
大のサッカー好きが、よりによって自国開催の時に日本に居られないということが、本当に辛くて辛くて…。当時は今ほどインターネットも発達していなかったので、情報もリアルタイムに入らず、日本にいる友人からメールが来るたびに泣いていました。
時を同じくして、日本の両親から怒りの連絡が来ました。授業に出ていないことが両親にバレたのです。大学側が出席率や成績をしっかり日本語に翻訳して送っていたのです。お金を出して頂いている身なので、さすがにこれはまずいと思い、少しずつ授業に行き始めましたがホームシックは止まず、何をしていても面白くなくなっていました。
その折に、成人式に出るため日本に一時帰国をします。帰国してまず思ったのが「日本は食事が美味しすぎる」ということ。未だに大食漢の私ですが、この時の経験がそうさせていると断言して良いでしょう。そして、信頼できる友人が近くにたくさんいるということ。ニュージーランドの生活は前述の通りかなり荒んでいたので、あまり信頼できる友人が出来ませんでした(とはいえ、未だに連絡を取る友人も僅かに居ることは居ます)。
このまま居ても自分のためになるのか…ということを考えていた矢先、両親から金銭的な問題でこれ以上留学は厳しいという話を受けます。後から聞いた話なのですが、学費以外に渡航費用やお小遣い、寮費など結構な額が負担となっていたようです。そんな中、私は荒んだ生活を送っていて、本当に申し訳ないことをしたな…と思っています。そのような経緯もあり、成人式が終わった後、残った学期の授業はちゃんと消化した上で大学を中退し、帰国することになります。

21歳~22歳

日本の大学への編入を試みましたが、どこも単位が足りず、専門学校に入りなおすことにしました。スポーツマスコミを勉強する学校です。スポーツジャーナリストを目指していた私にとってはうってつけかなと思い入学しました。
授業はそれなりに面白かったです。全日本プロレスで広報をやっていた先生から裏話を聞いたり(授業の一環で)、浦和レッズに取材に行ったり、当時メジャーリーガーだった石井一久選手にインタビューしたりと、貴重な経験をたくさんさせてもらいました。
ただ、就職活動が上手くいかない…。
大学生ではなかったので、就職系のイベントなど行っても相手にされないことが多く、マスコミ系は大卒しかエントリーできないというところが多く、ちょっとした無力感に悩まされました。ただ、根は真面目だったのでそんな状況下でもめげずに選考を受けられるところを探し、某芸能プロダクションの最終面接まで進んだりもしました。そんな中で、就活の場数を踏むべく教育系の企業も受けていたのですが、不思議とそのような業種は内定をもらうことができました。ただ、当時は志望業界でなかったので内定が出たところも辞退するなどしていたので、結局のところ卒業時には進路未決定でした。
ちなみに、学業以外は本当に楽しかったのがこの頃です。おそらく人生で一番楽しかったころではないでしょうか。もう、遊びまくっていました。学校が新宿だったこともあり、生活圏内が一気に広がったことも要因ですが、小中学校時代の友人と常に一緒に行動し、学校行っているかアルバイトしているか、遊んでいるかの三択でした。

23歳

2005年の4月が新卒になる学年だったのですが、フリーター→大学中退→専門学校卒という経歴だったので、多くの同級生と社会に出る年度的には被りました。ただ、4月1日時点で進路が決まっていませんでした。焦燥感を強く覚えながら、地方に赴任する地元の友達を見送るために駅へ行ったことを覚えています。そこそこ強い雨が降る一日でした。 
当時のことを思い出すと、今置かれている状況と妙に被るのですが(詳細は後述)、進路という点においては、一般の方よりも苦労をしている部類に入るのかもしれません。それまでの努力が足らないと言われたらそれまでなのですが…。
それはともかく、スーパーの夜勤アルバイトをしながら履歴書を書いて応募する毎日を送っていたところ、なんとか某大手会社が発行している雑誌の制作進行という部署に契約社員で採用されました。よって、5/1付でその会社に入社することになりました。
この大手会社、誰もが知っている会社です。未だに新卒生からの人気企業ランキングでも上位に入るのではないかという会社なのですが、配属されてから研修も何もなく、いきなり始発帰りをすることになります。仕事の内容については割愛しますが、雑誌の編集という現場が如何にルーズなのか、一人の編集者の気分によって永遠に仕事が終わらないということをここで知りました。(今は改善されているかもしれませんが、当時はそんな状況でした)
故に、入りたての私は印刷所に入稿するまでの最後のフェーズで作業をしなくてはいけないのですが、出社してから担当編集者の原稿を永遠と待ち、ちょちょっと作業して始発で帰宅、みたいな日々が始まったのです。
上司にあたる方はそれが日常と化していたので、普通にネットしながらゲームしたりして過ごしていましたが、新入社員の私はそんなことをするわけにもいかず、かと言って原稿が来るまではやることがなく、時間が過ぎるのをただ待つだけ、という日々が続きました。
この職場、社員同士のコミュニケーションがあまり活発ではなく、誰に対しても壁みたいなものを感じながら過ごしていたので居心地はすごく悪かったです。今で言うコミュ障と言いましょうか、そのような方が多かったこともあり、私が大きな声で挨拶をすると「うるせぇ!」と言われたこともあったっけか…。
ここではきっと長く続かないだろうな、と思いながら働いて半年経った頃、課長に突如呼び出されて「解雇」を言い渡されました。確かに戦力には全くなれていなかったし、周りともコミュニケーションが取れていなかったし、そもそも自身の帰属意識もなかったのですが、いざその現実を突きつけられるとショックではありました。5月に入社して10月末に退社し、私の一社目のキャリアは終了したわけです。ちなみにどこでも仲が良い人が出来る私ですが、この職場だけは唯一、今繋がっている人は誰もおりません。
さて、露頭に迷った私はある決断をします。
翌年に控えたドイツワールドカップを見に行く、という決断です。幸い、大手企業ということもあり残業代は一分単位で出ていたのと、深夜に作業することが多かったと、忙しくて使う暇が無かったこともあり、そこそこの金額が貯まっていたのです。前述の通り、2002年の日韓ワールドカップの際は日本にいなかったので、必ず現地で見るんだと強く思い、そのために休みの融通が効きやすいアルバイトの道を選んだのです。
結果として、11月の半ばから羽田空港にある書店にアルバイトとして勤務することになりました。並行して、学生時代にやっていたスーパーの夜勤も掛け持ちすることになり、早朝から昼過ぎまでは本屋で、一回帰宅して寝て夕方からはスーパーで夜勤という生活が始まりました。

24歳

書店での勤務は楽しかったです。大好きな本に一日中触れられているだけでも幸せでした。ただ、思っていた以上に肉体労働な面があり、女性誌が入荷する日など(分厚いものが多いので)は大変だった記憶があります。

そして、この年は何と言ってもドイツワールドカップの現地観戦が自分の人生史上でも大きな出来事として残っています。すべてはこのために生活を懸けてきたと言っても過言ではありません。
海外のサイトを通して買ったチケットは確実に手に入る代わりに、相場以上に高値になるということでしたが、意を決して二試合分のチケットを購入しました。
フランクフルトで行われたイングランドvsパラグアイと、ライプツィヒで行われたスペインvsウクライナの試合です。フランクフルトは世界的に見ても有名な都市なのでなんとなくどんな場所か想像がつきましたが、ライプツィヒという都市はこのチケットを押さえたことで初めて目にする場所でした。日本からの直通便も無く(現在はどうかわかりませんが)アクセスもあまり良さそうではありませんでしたが、当時のスペイン代表にはラウール、ビジャ、プジョル、レジェスなど脂が乗った選手たちがメンバー入りし、一方のウクライナにはACミランで大活躍したシェフチェンコが満を持して初のワールドカップ出場ということもあり、どうしても見たかったのです。ちなみに当時の日本代表はジーコ率いる史上最強の中盤と呼ばれたメンバー構成でしたが、好きな選手が全然呼ばれなかったのでそもそも観戦したいと思っておりませんでした。
そういうわけで、チケットから航空券、ホテルや鉄道など諸々すべて自分で押さえた上でドイツへと発ちました。
イングランドvsパラグアイはフランクフルトのスタジアムの最上段の後ろの方でひっそりと観戦していましたが、周りはイングランドのサポーターだらけ。そこに紛れる東洋人は目立つようで、やたらと絡まれました。訛りの強い英語で「君たち日本人なのになんでこの試合にいるの?」とか「俺たちは日本の試合なんか興味ないよ」とか「そもそも日本人の選手知らないぞ」とか、そんな感じのことを周りのイングランド人から言われましたが、これが世界から見た日本サッカーの立ち位置なんだよな…なんて深く感心する自分がいたり。
試合の日以外は観光もしました。フランクフルトの街並みは古さと新しさが上手く融合した素敵な街でした。ただ、ドイツの経済の中心地ということもあり、やや近代的な建物が多かった印象があります。また、地図を見ながらうろうろしていたら、すぐに現地の人が話しかけて助けてくれたことも印象に残っています。思えば、第二次世界大戦時は同盟国だったのでその名残もあるのかな…なんて思ったり。
さて、数日フランクフルトに滞在してからライプツィヒへと移動します。日本で言う新幹線みたいなものに揺られ三時間ほどで到着します。
このライプツィヒという都市は旧東ドイツ領だったこともあり、フランクフルトに比べると全体的に質素な印象を受けました。街並みはこじんまりとしていて、必要最低限のものは揃っているけれど、どうにも空き地が目立つような、そんな街でした。ただ、この街にたまらなく魅力を感じた私は試合の日まで隅々まで歩き尽くしました。案の定目ぼしいものは何もなく、名所と呼べる場所もほとんど無いのですが、逆に現地の方の息吹を感じることが新鮮で、未だに良い時間だったな…と思い出すことがあります。
さて、肝心の試合観戦は4-0でスペインの圧勝劇をこの目で見た形になります。この試合、当初申し込んでいたのは一番安い席だったのでフランクフルトの時同様三階席での観戦予定だったのですが、チケット会社が何を間違えたのか、なんと一階席の前の方で観戦できたのです。思わぬサプライズが待っていたのですが、おかげで90分があっという間に過ぎてしまい、実は試合展開のことはあまり覚えていません。夢心地とはまさしくあのような時のことを言うのでしょう。
私が描いていた「ワールドカップを現地で観戦する」という夢は、期待以上の形で叶ったことになります。

25歳

書店でのアルバイトはその後もしばらく続けましたが、正社員としてそろそろ勤務したいな…と思い、就職活動をしておりました。そういえば、このアルバイト期間にとある大学の文学部に編入し、コツコツと文学を学んでおりました。ただ、大学がメインの生活を送っていなかったので勿論単位は足りるはずもなく、通信に切り替えてその後も長々と在籍だけはしておりました。(卒業はしていません)
さて、就職活動はドイツへ行ったことをキッカケに、旅行に関われたらいいなと思い、中小の旅行会社を中心に攻めていきました。今思えばあの歳だったから未経験でも面接には進みやすかったなぁ…なんて。
その中で縁があった会社に入社することになりました。25歳にして初の正社員勤務です。

ただ、この会社が本当にしんどかったです。
旅行会社、と聞いていましたがいざ入社したら待ち受けていたのはひたすらテレアポ。一日中テレアポです。むしろそれ以外は掃除や偉い人のパシリくらいしかやることはありませんでした。テレアポが本当に嫌すぎて、偉い人のパシリを依頼されるとそれだけで喜ぶようになっていました。
だいたい三か月ぐらいテレアポをした頃でしょうか。営業として独り立ちして、関東全域に加えて静岡や新潟、福島など色々な場所にいきました。観光地であれば横浜からでもアクセスはし易いのですが、そうでない場所もたくさんあったので、場合によっては始発で向かって終電で帰ってくる(いわゆる直行直帰)なんて時もありました。
同時に、自社ツアーの添乗も行いました。日帰りのバスツアーが中心でしたが、これまた色々なエリアを回りました。一番距離が長かったのが、福島県南相馬市発の、横浜中華街ツアー。朝6:00に出発し、帰ってくるのが23:00という超強行スケジュールでした。
添乗は体力的にしんどかったですが、個人的には楽しい思い出が多いです。出発地が遠い場合は前泊するのですが、それで知らない街に行くことも楽しかったですし、色々なお客さんと触れ合えることも楽しかったです。
ただ、営業は向いていませんでした。ノルマや数字に追われることは好きじゃないと自分で認識したのがこの頃です。
この会社は結局一年間のみの勤務でしたが、居てはいけない…と思うことが入社直後から多々あり(詳細は到底ここでは書けません…)、早くから転職を視野に入れていました。

26歳

同じ旅行業界を中心に転職先を探していましたが、前述の通りテレアポばかりやっていたので、誇れるスキルは身につけることが出来ずにこの時も難航する…と思いきや、思わぬ形で活路が開きます。
旅行業界中心とは言いつつも、「とにかく会社を辞めたい」という気持ちが強かったので、条件や業界などは何も考えず、ただ面白そうかどうかという判断基準で応募を繰り返していた時に、ある会社に巡り合います。
それが、結果として十六年間在籍することになる会社(教育業界)です。

とにかく会社を辞めたかった私は、ろくに会社の要綱も確認せず一次面接に向かいました。最低限の情報だけを持って人事の方と面接をしたのですが、その方から面接で言われたことは「大学卒じゃないから採用はできない」ということでした。(ちなみにこの学歴問題は私のキャリア全般でつきまとってくる問題ではあります)
そう面接で言われて、「まぁそうだよな…」なんて思いながら過ごしていたのですが、なんと人事の方の肝入りで面接が通ってしまったのです。
人事の人曰く「大学卒ではないから本来ならば採用はしないが、人間性が素晴らしいと思い、ぜひ一緒に働きたい」ということでした。自分で言うのも恥ずかしいですが…。そういうわけで、まさかの二次面接に進むことになり、取締役と面接をするのですが、ここでもその場で合格をいただき、「あとは貴方を配属する部署の責任者と最終的に面接をして、合否を出します」ということを言われました。結果として、最後は初代の上司となる方と面接をして内定を頂き、入社することになります。(ちなみにその前に勤めていた旅行会社から辞める時に散々妨害を受け、入社予定が二か月延びました)
そのような経緯を経て、2008年2月に某教育業界の会社に入社します。

最初に配属されたのは「大学受験部」です。大学中退の私が大学受験?ということで当時は葛藤しました。ただ、折角頂いた縁に報いるためにも、必死に取り組みました。とは言え、やれることは限られています。まずは生徒とのコミュニケーションに全力でエネルギーを注ぎました。必ず来校したら、挨拶だけでなく雑談を交わすようにして、一人一人のキャラクターを理解し、声を掛けるようにしました。あとは細かい事務作業や清掃などです。私がいた部署は大手予備校と提携し、そこの映像授業を主としていたので高校生に学習指導する場面はほとんど無かったので、学習管理やコミュニケーションにエネルギーを傾けることが出来たのです。とは言え、入試の知識は必要なので、折を見てそちらは勉強しました。
思えば、新卒の時もなぜか教育系の企業の内定だけは取れたので、これは自分にとって天職なのかな、なんて思いながら、がむしゃらに勤めた一年目。

27歳~28歳

二年目に、自宅から離れた大規模校舎に異動します。そこで、大学受験に加えて「個別学習」の責任者を兼任することになりました。
異動先の大規模校舎は、社内でも最も多くの生徒が在籍する校舎でした。専門的な話になりますが、「総合校舎」と呼ばれる、小学生から高校生まですべての年代が通う校舎です。初年度勤めた校舎も総合校舎でしたが、ビルの中の別フロアでしたので、他部署との関わりはありませんでしたが、ここで自分の部門以外の方との連携が発生することになります。ゆえに、高校生の対応は自分が担当なのでやっておりましたが、小中学生の対応を求められることも多々ありました。同じ空間にいるから「他部署だから知らない」というスタンスでは務まりません。異動当初はそこに戸惑いを感じながら勤務しておりましたが、そもそも個別学習の責任者も兼務し始めたばかりで、環境が一気に変わったことで色々と動きが見えず苦しんだのがこの時期です。

異動初年度はまだ周りの方に助けられながらなんとかこなしました。問題は三年目です。まず、大学受験と個別学習の責任者に加えて、「中学生の授業」も担当することになりました。中学三年生の社会です。一週間にたった一コマですが、どう授業を組み立てて良いのかわからず、毎日家に帰った後に予習をしっかりして臨みましたが上手くできない日々。授業の後は基本的にダメ出しを受け、凹み、また立ち直って…の繰り返し。一方で、大学受験の方は絶好調で、通学する生徒が百名を超えるという大所帯。アルバイトの大学生のマネジメントもしていましたが、なかなかこちらも上手くいかない。個別学習の方もアルバイトのマネジメントに生徒の管理もやっていましたが、それに集中するわけにもいかない。総合校舎で社内最大規模という割に、教室の面積は狭く、窓もないので空気も悪い。執務スペースも狭い。新しく赴任してきた中学生担当の先生は猪突猛進でコミュニケーションが上手く取れない…と、何が何だかわからなくなっていました。それでも根性だけでどうにか乗り切っていましたが、上司にものすごい叱責を受けて涙を流してしまったこともあります。それに対してその上司は「次涙流したらクビだから」なんて言われて、自分の情けなさと上司の無慈悲さに絶望したり…。当時の自分がもしクライエントとして来たらどうするだろう、なんてキャリコン目線で思い返すこともあります。

29歳

この年、更に近隣の校舎で中学生向けの授業を担当することになりました。中学三年生の国語を二コマです。更に更に、近隣のまた別の校舎で中学二年生と三年生の社会を一コマずつ(合計二コマ)受け持つことになりました。故に、週に五日の勤務日のうち、本来所属の校舎には実質三日しか居られないという形です。業務量は変わりません。相変わらず上手く回らない日々を送り、上司には度々激しい叱責を受けました。さすがに涙は流さないように堪えましたが…。加えて東日本大震災があり、イレギュラーな対応も入り、疲労困憊な日々でした。
そして突然、異動を言い渡されます。近隣の小規模校舎への異動です。

おそらく全く業務が回っていないことを見かねてそのような判断となったのでしょう。あまりにも突然のことでにわかに信じ難かったのですが、そのような判断が下った以上は従うしかありません。
社内で一番大きな校舎から、小さな校舎に異動するということで、「左遷」だと言う人もいました。逆に、私と入れ替わりに小さな校舎から大きな校舎へと移動した入社二年目の方は「栄転」と言われていました。
もう、本当に辛かったです。今思えば、あの時が辞め時だったような気がしなくもないです。ただ、そこで左遷だの何だのと言われたまま去るのがどうしても嫌だったので、続けることにして小規模校舎へと赴きました。

前に居た校舎とは打って変わって、小規模校舎は牧歌的な空気が流れている場所でした。生徒の数もおそらく半分以下。校舎の面積も半分以下。
そこで変わらず大学受験と個別学習の責任者をしながら、中学生の授業を複数担当しました。
この校舎は結局一年弱のみの在籍でしたが、ひとつひとつの業務を再度見直すきっかけになり、今となってはいい時間だったと思います。苦労していたアルバイトのマネジメントもここでは割と上手く出来ましたし、自信が深まった時期だとも思っています。ただ、それでも「左遷されたくせに」と言ってくる方がいたのには閉口しました。ちなみにこの人は数年後、まさかの巡り合わせを果たすことになります。

30歳

とある社会人向けの資格スクールと提携をすることが決まり、そこの責任者として別の総合校舎に異動することになりました。完全なる新規事業だったので、備品やらなにやらすべて一から揃えました。ただ、この提携先の資格スクールの商品が、非常にニッチなものが多く、受講生がてんで集まらない…。ラインナップの多くが工業系の資格だったので、近隣の町工場などに営業周りをしました。だが、どうにも集客が厳しい。なので、正直な話勤務しながら時間を持て余していたのがこの時期。
で、それを会社も察したのか他部署の仕事が舞い込んでくるようになりました。例えば、夏休みに行った小学校低学年向けのキャンプイベント。ボーイスカウトを小学生の頃にやっていたということでお役が回ってきましたが、これはこれで結構楽しかったです。一緒に引率していた男性スタッフが最終日に倒れ、一人で数十人の小学生を見る、なんてこともあったっけか。それでも手を持て余していたので、結局学習塾の授業に入るようになりました。冬の辞令で、次年度からは同じ校舎で大学受験兼個別学習の責任者、加えて資格スクールの責任者をするよう伝えられました。

31歳

結局総合校舎で前やっていた業務に戻ります。このあたりから、授業を通年で担当することが当たり前になってきます。この年は中学受験をする小学校四年生の国語を二コマ担当しました。あとはスポットで高校受験する中学生の授業をちょこちょこと担当しつつ、自身のメイン業務をやっていました。不思議なもので、この頃になると業務量は増えて大変だったものの、以前のように八方塞がりになることはなく、なんとか回しておりました。
この年に苦労したのは、高校三年生の対応。長い教育業界歴で誇れるものとして、どんな生徒でも仲良くなれる(=信頼関係を築ける)というものがあるのですが、唯一この年の高校三年生とはあまり上手く信頼関係が築けませんでした。勿論全員というわけではありません。数少ない層ですが、どこにでもいるその学年のキーマンとなる女子生徒と仲良くなれませんでした。私は別段嫌いとかそういうのはなかったのですが、彼女の方が明らかに私を拒否していて、対応に悩みました。
私の前任の女性社員がいたのですが、その者とすごく密接だっただけに、後任の私を受け入れられなかったようだというのは、後になって周りの者から聞きました。逆にキャリアを振り返ってみて、生徒との信頼関係に悩んだのはこの年だけです。

32歳

29歳の頃に、盛んに私に対して「左遷だ」と言ってきた別の校舎の責任者がおります。ぶっちゃけて言うと、その人の事を私は嫌いでした。
よりによって、その人が私がいる総合校舎の責任者として異動して来ます。正直な話「終わったな…」と思いました。
仕事の方は役目は変わらず、授業の担当数だけ増えた形です。中学受験の四年生五年生の国語社会、中学二・三年生の国語社会が加わった記憶がありますが、もはやこのあたりはうる覚えです。
責任者のことは正直嫌いでしたが、なんとか彼の良い部分を見ようと努力しました。実際、彼の授業は上手で、その部分は素直にリスペクトし、色々教えを受けたりして、努めて良好な関係を築こうとしました。実際、この年はそんな彼のことを少しずつ嫌いじゃなくなってきており、一緒に食事に行ったりもしていました。大げさですが「自分が変われば相手も変わる」なんていう思いすら芽生えていました。
自身のメイン担当の高校生、個別学習生は絶好調の年でした。
前年とは違い、私が赴任してから入塾してきた生徒たちだったので、信頼関係も非常に強く作ることができました。保護者との面談も数多く行い、そこでの信頼関係も作り上げていきました。
この年に現役合格率を90%に初めて乗せました。中には、受験直前期に急激に力を伸ばした生徒が、第一志望含めすべてに合格した、というケースもあり、生徒が持つ底力というものの凄まじさを実感し、他の生徒にも具現化できるように徹底的に観察し、研究を進めていったのもこの頃からです。

33歳

高校生の生徒募集に苦労し、前年に比べると一転してこじんまりとした空気だった一年でしたが、授業のコマ数は更に増えて、大学受験責任者兼個別学習責任者兼小中学生授業担当となりました。資格のコースは変わらず集客が難しく、この年に撤退をしています。
前年に指導していた高校生たちが大学生になり、大量にアルバイトとして入ってくれたことが私にとっては大変大きいことでした。そもそも関係が出来上がっているので、マネジメントは格段にやりやすくなりました。
このあたりから、アルバイトとは言えども働くということで、スタッフ全員がやり甲斐を感じながら働いて欲しいという思いが強くなり、一人一人とのコミュニケーションを密に取るように心がけました。そのお陰か、ほぼ全てのスタッフが能動的に考え、動くようになりました。私は彼らから何か提案されたとしても頭ごなしに否定はせず、話を聞くこと、そして彼らが何かをやりたいと言ってきたときは「まずはやってみよう」という姿勢を貫きました。
話は若干反れますが、仕事をする上で一番やり辛いのは「萎縮」している時だと個人的には思っています。「失敗を恐れる」から「萎縮」する、そして「失敗を恐れるようにさせる」のはマネジメント側の問題だと思っていたのです。だったらまずは何でもやってみて、その最中で改善出来れば繰り返していった方がやりやすいはずです。(少なくとも私はその考えです)

話を戻します。
私から見ても、スタッフみんなの考え方や動き方は素晴らしく、信頼が置けました。その甲斐あってか、この年に現役合格率100%を達成します。全校舎唯一、そして自分史上初めての快挙(だと思っている)です。
この年は推薦入試を受ける生徒も多く、その対策にも時間を割きました。自ら大学に足を運んで情報を得たり、外部のセミナーなどに参加して研鑽を積んでいきました。時勢的にも推薦入試での大学入学者割合が増えて来ていたので、これからは推薦入試対策を(会社としても)力を入れていくべきだ、その礎は築けた、機は熟した、次年度はかなり面白くなりそうだ、と考えていました。

34歳

業務内容は前年と変わらず、高校生もこの年は非常に多く集まり、年初はかなり明るい雰囲気でスタートしました。加えて近隣の校舎との掛け持ちをすることになり、二校舎の高校生を担当することにもなりました。29歳の時に掛け持ちで全く上手く回せなかった私が、この頃になると問題なく回せる、いや、回せたはず、でした。

私が嫌いだった校舎責任者の話です。
異動当初は上手くやっておりました。ただ、やはり時間が経つにつれてシンデレラの魔法が解けるかの如く、彼のメッキは剝がれていきました。
(以下、適切でない表現があるかもしれませんがご容赦ください)
彼はとにかく仕事をしないのです。勤務中に自分の車に行ってケータイゲームをしたまま戻ってこないとか、掃除を全くしないとか、チラシ配りは「やりたくない」と言って私含む他のスタッフにやらせたりとか、テスト対策時に「理系科目は担当したくない」と後輩の理系に強い社員を休日出勤させたりとか(勿論無給です)、あとはパチンコが出てて店を出れないという理由で校舎に来なかったりだとか、枚挙に暇がないわけです。私を含む、スタッフ全員から信頼を失っていました。
そこに加えて、私が決定的に彼を信頼できないと思った出来事が起こります。
小学生向けに新コースが出来、彼はその担当でした。ただ、新コースということもあり、一人で回すのが大変だと言い出し、私を半ば強引にそのコース担当にしたのです。ちなみに週に四コマ、合計すると八時間に相当する時間を取られる形になります。自分の業務はその間、出来ません。しかも、校舎を兼任することになっていたので、週に一度は別の校舎に行くことになっていましたが、なんとそれを妨害してきました。もはや私自身との問題ではなく、別の校舎にも関わってくるので、彼の勝手な一存でどうこう出来る問題ではないのですが「俺は一人で回せないから(キャリコンが如くが)入ってくれないと無理」の一点張り、なぜか私が兼任先の校舎責任者に謝るという事態にまでなります。奇しくも私の上司であるその校舎責任者は、上記のような振る舞いで会社中から嫌われてたので、兼任先の校舎長も理解を示してくれたのが不幸中の幸いでした。ただ、私の業務はかなり滞りました。毎日終電まで仕事してどうにか回しておりましたが、さすがに会社に言うべきだなと思い、社員面談の際にその話を持ち掛けたのです。

その校舎責任者の上に、エリア長と呼ばれる(課長職)の人間がいるのですが、社員面談の担当はその人でした。
私は現状を率直に伝えたのです。
そして、こう言われました。
「お前が言っている事は詭弁だ。校舎責任者に従え」と。

加えて、前年度現役合格率100%を達成したにも関わらず、私の給与査定はマイナスでした。
そのエリア長曰く
「お前の100%現役合格には価値がない。〇〇(別の校舎の大学受験担当)は東大合格者を出している。お前も東大合格者を出してから言え」とも。推薦入試対策に力を入れるべきだという提案も簡単に却下されました。「難易度が低い大学に何人合格させても価値はない。東大合格者を出せ」と。

全く話にもならず、最後にこうも言われました。
「何を言うかではなく、大事なのは誰が言うかだ」と。

私の怒りは完全に限度を超えました。これ以上話しても仕方がないと思い、すぐに面談を終えて自分の校舎に戻りました。
自分の感情で話をしたわけでなく、ただ状況を伝えて、一緒に考えて欲しかっただけなのに、よりによって詭弁の一言で片づけられたこと。
頑張って出した成果を馬鹿にされたこと。
校舎長のことも嫌いでしたが、このエリア長のことも嫌いになりました。
同時に、このような人間には絶対になってはいけないとも思いました。

この一件以降、私は校舎責任者の意を飲む形で新コースを担当します。
ただ、この年に校舎責任者とは個人的な会話を一切しませんでした。
エリア長がたまに来ても、全く会話もしませんでした。
私が未熟なのかもしれませんが、このような人たちに媚びるのはプライドが許しませんでした。ただひたすら、自分の担当生徒の合格のためだけに働いていました。
同時に、入社して初めて転職を意識したのがこの頃です。
忙しい合間を縫って何件か面接をしましたが、担当生徒の事を考えると年度途中で辞めることがどうしても出来ず、そのままずるずると年末まで働いていたところで、とんでもない事が起こります。

校舎責任者の電撃退社です。

よりによって受験間際の大切な時期に、しかも近隣にある競合の塾に行きました。
ある意味去り際もその人らしいものでした。
私は他のスタッフと手分けして、彼の抜けたコマを引き継ぎます。私が担当している高校生たちも受験間際でケアが必要なのに、そちらに時間を割くことができなくなってしまいました。
なんとか残ったスタッフでこの局面を乗り越えたのですが、謝罪も礼も一切なく、なんならたまに荷物を取りに来たついでに授業を見学して文句を言って、彼は去りました。
彼が電撃退社をしたことで、私は辞める理由がなくなります。よって、次年度も続けて勤務することになりました。ちなみにこの年も高校生の現役合格率100%を達成しました。

35歳

嫌いだった校舎責任者が去りましたが、嫌いだったエリア長が校舎責任者を兼任することになりました。
スタッフも半分が入れ替わり、継続したのは私ともう一人の後輩社員だけ。
新しく赴任したのは新入社員の男性と、「算数の神」と言われている先輩社員。業務内容は変わらず。
ただ、この一年間はものすごく楽しかったです。
まず、嫌いだった校舎責任者が退社したことで職場の空気が驚くほど明るくなりました。アルバイトの講師たちもそれを感じていたようで、以前以上に生き生きと頑張ってくれました。
新しく赴任した社員二人とも非常に明るく前向きで、特に「算数の神」と呼ばれている先輩社員は実力もさることながら稀に見るムードメーカーっぷりを発揮し、笑いが絶えない職場になりました。
私もこの一年はあまりストレスを感じることなく、どの業務も上手くやれていたのではないかなと思います。私自身も小学生から高校生まで、中高大すべての受験に携わることにも慣れ、あまりストレスなく働けておりました。このメンバーで、このままやっていきたいな…と初めて思ったのがこの年です。嫌いだったエリア長とは相変わらず意見は合いませんでしたが、なんとか折り合いをつけながら過ごしておりました。

秋口に入った頃でしょうか。
突然取締役に呼び出されました。
そこで、次年度より別部署への異動を言い渡されました。
幼児教育、小学校受験を専門にする部署です。

まさしく「晴天の霹靂」、話を聞いて呆然としてしまいました。
想像すらしていなかったことだったのです。
実は、私が勤務していた学習塾の部門はかなりの苦戦を強いられておりました。私の校舎はなんとか持ちこたえておりましたが、この数年で閉鎖する校舎がいくつも出て来ていたのは事実です。逆に、幼児教育の部門は絶好調で、エリアでは常にナンバーワンの実績を出し続けている「名門」でした。いわば会社の看板部署なので、第三者から見たらまさしく「栄転」と呼べるものだったかもしれません。ただ、ようやく学習塾でストレスをあまり感じない中で働け始めていたので、複雑な心境でした。ただ、色々考えると、看板部署に異動できることは名誉なことだなと思い、前向きに捉えるようにしました。そして残された学習塾での勤務を目一杯楽しもうと思いました。
実際、この一年間は今思い出しても一番楽しく働けていたと思います。そういう時間に限って、経過があっという間なのですよね。瞬く間に過ぎ去り、私は校舎を去りました。気づいたら十年間学習塾の部署で勤務し、半分以上はこの校舎にいたことになります。ちなみに、この年の高校生も現役合格率100%を達成し、有終の美となりました。

36歳

春になり、正式に幼児教育の部署に異動しました。ポジションとしては、本社勤務をしつつ授業の際は校舎に赴いて行う、という形でした。
同じ会社であるものの、違うことだらけで最初は慣れるのに必死でした。
まずは就業時間。学習塾は13:30からの勤務ですがそれが9:30からの勤務になりました。生活のリズムに慣れるのがそもそも大変でした。
次に、女性スタッフがほとんどを占める環境だったことも苦労しました。男子校出身ということと、学習塾がほとんど男性だったということもあり、完全に男社会での生活に慣れ切っていたのです。何かされるわけでもないのですが、女性ばかりの環境に居心地の悪さを感じました。今の世の中で、男性だの女性だのというのはよろしくない、という風潮があります。私も男性がいいとか女性が悪いとか言うつもりは全くありません。ただ、どうしたって接し方が変わるのは事実です。男性が気にならないことを女性はすごく気にしたりします。(その逆も然り、ですが)
また、指導対象年齢も一気に下がるわけです。相手は未就学児です。子どもは好きなので接していて楽しさはありましたが、高校生に掛ける言葉をかけても通じません。かみ砕いて、時にはジェスチャーを入れたりするなどして、コミュニケーションの方法を工夫する必要があります。これもかなり苦労しました。あとは小学校受験の仕組みを理解するのも大変でした。正直に言うと、中高大受験の方が遥かに(仕組みとしては)簡単です。小学校受験は多角的な面から生徒を見て合否を出すのです。ですので、環境に慣れるだけでなく、小学校受験という仕組みを理解することも大変でした。そういうわけで、異動初年度はただただ必死に毎日を過ごしていた記憶があります。楽しいのか楽しくないのかわからない、それすらも考える余裕が無い日々です。休みも不定期になり、土日に出勤することが増えました。

この幼児教育の部署で、私が悩まされたこと。それが「パワハラ」です。
結果として私がこの部署を去るまでこのパワハラは続きます。

長年多くの合格実績を出す、紛れもないエース級の講師がいました。
その方に目をつけられてしまったのです。何故目をつけられたのかは未だにわかりません。
彼女が思うような動きが出来ないと嫌味を言われ、萎縮していて何も言わないと「質問してこないのか」と怒られ、果ては私が聞こえるところで、わざと私の悪口を言う、極めつけは私の授業に対してもダメ出ししかしてこない…という具合です。
私も異動初年度はわからないことだらけで、手を煩わせてしまった部分は否めません。ただ、彼女が思うような動きというのは明文化もされておらず、言ってしまえば彼女の匙加減で変わるものなのです。感覚が合う方ならば上手くいくのでしょうが、私含めて合わない人間がほとんどです。実際、彼女が原因で会社を辞めている人は何人もおりましたし、彼女の邪悪性は会社も把握していました。ただ、圧倒的な実績を出すことから会社も無下にはできず、ますます拍車が掛かる…という状況です。
異動初年度はそのような状況のまま、あっという間に過ぎました。

37歳

邪悪な女性講師の振る舞いに悩まされながらも、少しずつ環境にも慣れ、少し平穏に働けていたのがこの一年だったと思います。
担当する生徒や保護者との信頼関係もしっかり構築し、自信も出てきました。ただ、体力的には辛い日が多く、どうにかこうにか奮い立たせて出勤していたように思います。
担当する生徒の合格率も100%とはいきませんでしたが、かなりの高水準を達成することが出来ました。
この時期に得たものとしては、保護者との信頼関係の構築です。未就学児なので、本人以上に保護者との関係をいかに強く出来るかが鍵になってきます。熱心に子どもを思う気持ちを保護者にも伝え、共有することを怠らずに取り組んできた成果かなと思っています。
思い返してみると、この年はそこまで波風立たない一年だったかなと思います。

38歳

世界中を震撼させた、新型コロナウィルスが蔓延した年です。
授業もイベントも中止、オンラインに切り替えて授業を行ったりするなど、イレギュラーな対応に追われました。
四月に発令された緊急事態宣言下はほぼほぼ活動が出来ず、宣言明けもマスクをして授業をしたり、使ったものは消毒するなど細かい対応に追われ、自分自身含め、スタッフの疲弊が見て取れた一年でもあります。

私自身としては、異動して二年が経った年です。実は異動当初、様々なことに戸惑いながらも必死に毎日を過ごすなかで「まずは二年間頑張ってみよう」と思っていましたが、この年でその二年間が終了したことになります。
そこで私がどう思ったのか言うと「辞めたい」というものでした。

やり甲斐も感じ始めていたし、自信も付き始めていた日々でしたが、変わらず例の女性講師の態度は酷く、正直耐えられない、と思いました。
会社にも折を見てその話を伝えてはおり、会社側からも何度となく彼女に指導が入っているという話も聞いておりました。(私以外にも同じような訴えをしているスタッフが複数居ました)
ただ、全く変化がありませんでした。例えば私の授業を他の講師の方と見学に来て、前向きな言葉を掛けてくれる方が多い中、一人だけ否定的なことを言ってくることはまだ良い方で、自分の仕事を手伝えと言ってきたことに断りを入れると「逃げた」と言われたり(私には私のスケジュールがあるので時には断ることもあります)、埒が明かないので私の上司にあたる方に間を取り持って頂いたこともありますが、そうなると「二人して逃げる」などと言われたり…色々な人に助けを求めましたが、エース級の講師であるが故なのか、誰も強く言えない状況で、泣き寝入りするしかなかったのです。
このあたりから、少しずつ眠れない日が増えるようになり、精神的にも肉体的にもしんどい日が増えていきます。
このまま何年もここで働けるか?と自問自答した際、どうしても続けて働くイメージが沸かず、再び転職活動を始めます。
ただ、コロナの影響で求人が少なかったということもあり、転職活動は超難航、加えて何人かのエージェントには「あなたは市場価値が無い」と言われて落ち込んだりもしました。教育業界でのスキルはどうしても他の業界では評価がされ辛いようです。同業界への転職も試みましたが、今度は「大学を卒業していない」ことと「年齢が高い」ことがネックだと言われ、途方に暮れていた時、急拡大していた学童保育運営の部署から声が掛かり、異動することにしました。

この年の11月に異動をしますが、その直後に原因不明の頭痛に襲われました。頭痛薬を飲んでも全く良くならず、高熱が続いたので病院に行こうにもコロナの影響で初見の外来は断られ続け、県の発熱外来に電話したら遠方の病院を紹介され、行くと「診療終了」で診察が受けられず、家でのたうちまわっていると実家から両親が駆けつけてくれて、救急車を呼んでくれました。CTで脳波を測ったりしましたが全く問題はなく、原因不明とのこと。薬も幾つか試しましたが効かず、十日間くらい仕事を休みました。ようやく頭痛が収まりかけた時に病院で再度診察を受けた結果言われたのが「自律神経の乱れ」というものでした。幼児教育の部署でのストレスが限界を超えていたのではないかと思われます。その後、改めて異動先の学童保育運営の部署で勤務を始め、まずは各拠点を転々としながら現場に慣れていきました。

39歳

年明け早々、都内のある小学校に併設されている学童保育の責任者として着任するよう辞令を言い渡されました。
ここの小学校も急拡大フェーズにあり、次年度から利用者が大幅に増える見込みとなっていた為、体制を強化する意味合いでの辞令でした。私が責任者、入社して数年の若い女性社員が副責任者として着任をします。
ここの現場は既存の現場でしたが、前任が退社するということ、非常勤の方もほぼ退社することが決まっており、刷新を余儀なくされていました。
四月からの利用者大幅増に向けて、スタッフの増員は喫緊の課題でした。本社にお願いして募集を強化してもらい、スタッフの面接をたくさん行ったのがこの頃です。状況を鑑みると、人手はいくらでも欲しい状況ではありましたが、目先のことに囚われるのではなく、「長く働いてくれそうか」「上手く他のメンバーとやれそうか」「(応募者が)入ることで現場の雰囲気がどうなるだろうか」ということを大切にしながら、どうにか四月まで最低限の人員を揃えて、備えました。

いざ迎えた四月一日、結論から言うと「予想以上に大変」でした。新入学の生徒は、言ってしまえば前の日までは未就学児です。発達も成長も個々によって全然違います。妙に成熟している子もいれば、非常に発達が遅い子もいるし、小学校低学年だとまだ誕生月(月齢と呼ぶ)が早いか遅いかで差があります。朝の八時から夜の七時までの長丁場を過ごさせることがこんなに大変だとは…と思いながらも、まずは預かっている生徒が安全に過ごせるように苦心して取り組んでおりました。

実は、この頃の記憶があまりありません。無我夢中だったのでしょう。生徒たちは色々な子がいて、接していて純粋に楽しかった記憶はあります。採用したスタッフもみんな良い方で、期待通りの働きをして下さいました。毎日何かしらのトラブルはありましたが、なんとか対処しつつ、日々に全力投球して過ごしていました気はします。純粋に、充実感はありました。四月をなんとか乗り切り、少し落ち着いたものの色々試行錯誤しながら運営を続けていき、次の繁忙期は夏休み。毎日朝八時から夜七時までの開所で、私は職場近くにホテルに自費で泊まり、勤務していました。

忙しいながらも、そして大変ながらも充実していたと思われる日々は、突然終わりを迎えます。
詳しくは書けませんが、私が取った行動が大問題になってしまい、職場を離れるように言い渡されます。信頼していたスタッフ、生徒たちにも別れの挨拶をすることすら許されず、(適切でない表現ですが)夜逃げみたいな形で離れることを余儀なくされました。これが秋口の話です。
この秋口あたりの記憶が本当にありません。プライベートを含めて、このあたりの記憶がごっそり抜けています。お気に入りのTシャツが無くなったと思っていたら、いつの間にか古着屋に売りさばいていたり、お金がやたら減っているなと思ったが何に使ったのか覚えていないなど、2021年の秋周辺の記憶は未だに戻っていません。

気づいたら、別の現場に着任していました。ここの現場も問題が起きて揺れているところで、「それに対処せよ」というのが会社から出された指示でした。ここはスタッフ間でのトラブルが騒動になっておりました。これも詳しくは書けませんが、一筋縄ではいかないものでした。このトラブルの対処の渦中において、心無い言葉をスタッフに言われてものすごく辛い思いをしました。また、会社からも凄まじい程の叱責を受け、気分はどん底まで落ちました。不眠が本格的になってきたのがこの頃です。

40歳

年が明けてもスタッフ間のトラブルを収めるべく、その対処に追われておりました。少しずつですが、トラブルは収束に向かっていっているような雰囲気になり、さてこれからという時にコロナに罹患します。療養生活に入り、そのまま別の現場に異動することになります。ここでもスタッフの方や生徒にはお別れの挨拶が出来ないままでした。
コロナから復活し、すぐに次の現場に着任をしますが、その後すぐに他県の拠点が大量に新規開校したことを受け、人員が足らないため向かってくれないかと会社から言われます。慌てて準備を済まし他県に合流し、ウィークデーはホテル住まいという生活がスタートします。

他県で新規開校した現場はどこもバタバタしておりました。拠点ごとに距離が離れているので、移動も一苦労です。最寄り駅がない、なんて拠点もありました。それぞれの拠点を回りながら、スタッフと少しずつ信頼関係を築いていき、ある拠点では人員強化のために面接をたくさん行ったり、ある拠点では逆に人員の教育を行ったり、拠点ごとの連携を深めるための動きをしてみたり、残業が恒常化している拠点についてはテコ入れをしたりと、何でもやりました。知らない土地での勤務はストレスが溜まるかなと思ったのですが、逆に知らない街だからこそ美味しいお店を探したり、ちょっと歩いてみたりすることで新しい発見があったり、豪華なホテルが安く泊まれるときは泊まって存分に満喫したりと、それなりに生活を楽しんではいました。

ただ、結果としてここでの勤務が私にとって最後の職場となります。
理由は、ここでも「パワハラ」です。

この他県での勤務は、私ともう一人、私の上長にあたる人と二人で回しておりました。広い他県での勤務ですが、会社から出向しているのは二人だけということで、実質的には密室状態です。つまり、他の人の目がないということです。
この上司というのが何とも言えない特徴の人で、考え方や感性などが大変独特で、かつそれをスタンダードなものであることとして人にも求めるのです(表現が難しい)。私もそれなりの年月生きていますが、このような特徴の人に出会ったことはありません。
そういうわけなので、自分が良しと思って行動したことだとしても、彼の意にそぐわないと叱責を受けることになるのです。彼が求めるスタンダードというものが世間一般のスタンダードとは遠く離れたものであるので、私が理解することも非常に難しく、とは言えそのスタンダードを理解しないとまた面倒なことになるので、必死で自分を押し殺して彼のスタンダードに行動や言動を近づけて仕事する日々が続きました。非常にストレスでした。例えて言うならば、お寺で修行している僧侶たちの中に一人イスラム教徒が紛れているような感覚で、メッカに向けて祈りを捧げる上司に合わせて、仏門に入って頭を丸めた自分も追随する(ふりをする)みたいな感じです。(表現が難しい)
書き出せばキリはありません。少しずつ、しかし確実に私の精神も肉体も蝕まれていきました。それでも何とか秋口あたりまでは気力を振り絞って働いていましたが、決定的に「これはやばい」と思う出来事がありました。
ある現場に向かうためにバスに乗ろうとしたときのことです。大きな駅のバスターミナルは少し高台にあったので階段を昇ろうとしたのですが、足が動かないのです。その場に縛られたかのような感覚になり、しばしそこで立ち尽くしていましたが、そのまま目の前の階段を昇ることができず、踵を返してゆっくりと遠いところにあるエレベーターに乗って、息も絶え絶えになりながら何とかバスに乗りました。すると今度は物凄く気持ち悪くなって来たので、途中で降りて水を自販機で二本買い、一気にそれらを飲み干して、体に無知を打つかのようにして再びバスに乗り現場に向かいました。
いつも難なく出来ることが出来なくなっていることを目の当たりにし、どうにかその日の勤務はこなしましたが、危機感を覚えて私は次の休みに心療内科に駆け込みました。
その結果、出された診断は「適応障害」。
すぐさま仕事を休むようにとのことでした。
お医者さんからは「ずっと溜め込んできたストレスが蓄積しているから、すぐの回復は難しい」ということで、その一週間くらいを使って何とか残った業務を片付けた上で、私は長い休職期間に入ることになります。

休職期間に入り、薬を服用しながら療養するようにとお医者さんからは言われたものの、何もすることがありません。「したいと思ったことだけをしてください。したくないと思ったことはしないでください。極端な話、風呂に入るのが嫌ならば入りたくなるまで入らないでください」という指示でしたが、風呂に入るのも嫌ではないし、食事も嫌ではありません。むしろ、仕事のことをずっと考えていました。私が休んでどうなっているのだろう、みんな元気にしてるのかな、そういえばあの件はどうしたんだっけな、とか、頭に浮かぶことは仕事のことばかりです。何なら、次の月に復帰をしようかとまで思っていました。ただし、仕事自体は嫌ではないのですが、仕事をする上でパワハラをしてきた上司とは関わる必要が出てきます。彼と関わらない部署に移ったとしても、同じ会社にいる以上関わりは生じてきます。だったら部署を移ろうかとも思いましたが、幼児教育の部署にも例の女性講師が幅を利かせている状況ですし、学習塾は縮小フェーズに入っているので戻れる余地はない…だったら復帰を考える方が今は体に悪いだろうと思い、お医者さんと相談をし、期限を決めずに休職することにしました。年末くらいまではそれでも仕事のことばかり考えていましたが、少しずつ日が経つにつれて薄れていきました。同時に、カタールワールドカップの期間だったので、ほとんどの試合をリアルタイムで見ていました。あまり大きな声では言えませんが、大好きなサッカーを心置きなく楽しめたのは良かったのかもしれません。そう考えると、私の人生の中の節目においてサッカーに助けられていることが多いような気がします。

41歳

無期限の休職を決め、ワールドカップも終わり、手持ち無沙汰の日が増えてきました。投薬の副作用と、動かなくなったのに食事の量は減らなかったのでこのあたりで人生最大体重を記録します。
余談ですが(20歳の項でも書きましたが)私は大食漢なので、カロリーを消費しないとこんなことになるのか…ということを身に染みて実感しました。逆に、仕事をする上で結構なカロリーを消費していたということも知りました。
少しずつ、晴れた日は散歩をしたり自転車で遠くに行ってみたりなど、体を動かすことを二月あたりから始め、仕事の事も頭から離れたことで体調は少しずつ良くなってきていました。ただし、まだ復帰は出来そうになく、いよいよ暇を持て余し過ぎた私は、何をすべきか考えます。
このまま復職するのかどうかはわからないが、どちらにせよ今後に生きるスキルを身に着けようと、まずはプログラミングの勉強をしようかなと思い、いくつかの学校の資料を取り寄せ、オンラインで説明を受けたりしました。ただし、どうにもしっくり来ない。身に着けたいとは思いつつも、その先の自分が想像出来なかったのです。大学に再入学して残っていた単位を取得して卒業しようかとも考えましたが、社会で実践が利く学問が専攻でなかったのでこれも断念。ふと昔耳にした「キャリアコンサルタント」の勉強をしてみようかと思い、とある養成講座の説明会に参加したところ、プログラミングの際には感じなかった自分の将来が見えた気がしたのです。
もしかしてこれが自分に合っているのかもな、国家資格も取得できるしやってみようかな、と思い、その場で受講を決めて申し込みを済ませます。

四月から毎週二回、授業が始まりました。
クラスは全部で十二人、なんと私が最年少です。四か月に渡る養成講座はあっという間に過ぎました。学生の頃は勉強が大嫌いでしたが、なんと無遅刻無欠席無睡眠を達成。当たり前のことかもしれませんが、休職している自分が当たり前のことを当たり前に出来るということがとれも嬉しく感じました。
養成講座のクラスメイトとはものすごく仲良くなり、講座が終わった後もみんなで自主的に集まって勉強を重ねて、十一月の試験に向けて団結して頑張りました。その結果、24回試験でなんとか合格できました。
(その頃の様子や勉強などは別途noteで記そうと思います)

42歳

無事にキャリアコンサルタント資格を取得した私は、社会復帰に向けて少しずつ準備を始めます。まずは体の作り直しということで、休んでいたボクシングジム通いを再開し、少しずつ追い込みを強くすることで肉体と精神を鍛えていくことにしました。
同時に、会社とも復職に向けた話し合いを重ねたのですが、やはり自分が懸念していたように、「戻れる部署がない」という話をされました。休職前に在籍していた学童保育の部署は、私が休んでる間に更なる拡大を進めており、人員は深刻に足らないという話でしたが、会社の判断としては私を戻すわけにいかない、というものでした。ちなみに、キャリアコンサルタントの資格を取得したと話しましたが、会社は全く興味を示しませんでした。

その後会社が色々と考えてくれて、戻れる可能性がある部署を提示してくれましたが、今までの自分の経験が活きる部署ではなく、更に条件も大幅に下がるという話だったので、これはもう辞め時かなと思い、退職し、今に至ります。
これを執筆している今は、色々な道を模索しておりますが光が見えない日々を送っています。やりたいことはありますが、果たして出来るのかどうか、自信を失いつつも何とか前を向いて動いてる毎日です。23歳の項で書いたような状況が十九年越しに訪れています。

これから

ちょうど退職を決意した頃、Xに「キャリコンが如く」としてアカウントを開設しました。当初は何も考えておらず、とにかく何か始めてみよう、という一心でアカウントを作りましたが、お陰様で少しずつ色々な繋がりが生まれてきています。純粋に新たな人と繋がりが出来ることや仲良くできること、話が出来ることが嬉しいし、何か「キャリアコンサルタント」として活動したいなと思っています。
具体的には、いや、抽象的かもしれませんが、「困っている人や悩んでいる人の力になりたい」という気持ちが一番強いかな、と思っています。いざ自己紹介と称して自分の人生をこうやって書きだした時、とにかく不器用で、苦難の連続だったことを再認識しましたが、そうやってもがいている人たちが生き生きと働けるきっかけを作る役目をしたいです。今何も悩みが無い人でも、いつそうなるのかは誰にもわかりません。そうなったときにでも、頼られる人でもありたいです。若い人も年配の人も、男性も女性も、誰でも気軽に話せるような存在でありたいです。
ただ、一貫して思うのが「弱者の味方でありたい」ということです。そして「弱者が強者になり、弱者をいじめない社会」を作るために寄与したいです。正義の味方を気取るつもりはありませんが、その思いはとても強いです。

最後に「キャリコンが如く」という名前について。
「龍が如く」というゲームがあります。プレイされたことがある方もいらっしゃるかと思いますが、2005年に第一作が発売されて以来、今となっては日本屈指の人気シリーズとなりました。
2024年1月には最新作の「龍が如く8」が発売されました。
これまでの主人公である「桐生一馬」という人物がおります。
この男、めちゃめちゃ強い人間で、とある社会においては頂点を極めるくらいの大物なのですが、自分の信念を曲げずに生き、愛するものを武骨に守り続けるのです。ゲーム中の人物ではありますが、私の目指す生き様そのものだったので、「キャリコンが如く」と名乗ることにしました。

ちなみに、本名でのアカウント開設も考えました。状況次第では本名に変更する可能性もありますが、問題ないようであればいけるところまでこの名前で通そうかなと思っています。

あとがき

気が付けば27,000字を超える大作となってしまいました。
ニーズがあるかどうかわかりませんが、次回は「キャリコンが如くのパーソナリティ」について書いてみようかなとか考えております。
今後とも皆様よろしくお願いいたします!
















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