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罪悪感(未遂)との闘い

インド哲学を学ぶグループでの瞑想会で「罪悪感を手放すこと」についてのシェアがありました。

今回の地震による被災者の方々が苦しい思いをしているのに、自分は温かい場所でゆっくり眠ることが出来ている。そこへの罪悪感。

そういうお話だったのですが、どんな罪悪感ももしかしたら元々は同じ思いから来ているのかなと、個人的に感じたことを書いてみたくなりました。

ちなみに、いまの私の罪悪感(未遂)は会社を辞めるかどうかというもの。
「辞めたら同僚に迷惑をかけるかも」
「家計の面で家族に迷惑をかけるかも」
というものです。

この、「迷惑をかけたくない」という、
一見、優しそうな仮面をかぶった言葉、
要注意です。

迷惑をかけたくない
≒ 今のまま自分さえ我慢すればいい
≒ このままのほうがみんな安心だよね
≒ 転職とか再就職とか大変だし
≒ いい歳してうまくいくわけないよね
≒ ほんとは挑戦したい気持ちもあるけど
≒ みんなの為に私は諦めるんだ
この無限ループです。はい。

結局、誰かのせいにして終わらせる。新しい世界に飛び込むのが怖いんです。とても怖い。あー、よくわかってるよ、わかってる、でも怖くて手を放せない。

はじめにご紹介した被災者への罪悪感も、もしかしたら行動出来ていない自分への複雑な感情のもつれなのかもしれません。
・ボランティアとして協力できないかを問い合わせていたら、
・自分に可能な限りの募金をしていたら、
・SNSを使い生活必需品を集めて送る活動をしていたら、
これらを実際にやっていたなら、その罪悪感は生まれただろうか、そう思うのです。
とことん自分にできることをやっていたら、罪悪感とは違う感情が出てくるのかなあ、そんなことを考えてみたりしています。

バガヴァッド・ギーターの第二章47節に
「あなたの職務は行為そのものにある。
決してその結果にはない。
行為の結果を動機としてはいけない。
また、無為に執着してはならぬ。」
という教えがあります。

なんどもここ読み返すんです。
なんども。
でも、今の私は
結果に囚われ、恐れているからこそ、「罪悪感未遂」というなんだか複雑な自らの思考に絡まり続け、本来の道を歩くことができていない苦しい状態を続けているのです。

世の中の人の悩みや苦しみって、形は違えど、たぶんこういうことなんだろうなあと思います。いろんな制限や思い込みを長い間無意識に受けてきて、いざ飛び立とうとすると自分で自分を邪魔してくる。
もういい加減、この闘いは終わらせようと思ってます。本当に。

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