見出し画像

それゆけ李白マン~中国街歩き詩選~ 第63回 武昌の台所をガン見して歩く

(38)ええ、実況中継にまかせて説明を省いてきたが、次なる目的地は県華林(シエンホワリン)という、旧武昌城内に残る民国建築の集合地である。昔ながらの区画や街路を歩きながら洋館めぐりが楽しめるということで、外国勢力の租借地とはまた違った趣が味わえようと旅程に組み込んだのである。それと、出発前に谷歌地球(グーグルアース)で「予習」したところ、ぼくは黄鶴楼と県華林の中間に、再開発の遅れた庶民的住宅地を発見していた。ほほう、いまどき珍しいじゃないかと期待大でマークしていたのだが、これからその区域に入る。

(39)糧道街(リアンダオジエ)から右折で、糧道大巷(リアンダオダーシアン)という横丁に入ると、眼前に家庭の洗濯物があふれだす。歩道の日陰では、地面にじかに胡座(あぐら)をかいて、スマホゲームに熱中している子供らもあらわれた。このようにして、ぼくは突然、裏町の庶民的雰囲気に取り巻かれた。左折して候補街(ホウブージエ)。車の往来は途絶え、パジャマ姿の地元民が歩いていたり、戸を開け放った平屋の雀荘で、大勢の高齢者が卓を囲んでいたりする。昼間から良い雰囲気だね。さらに右折で、得勝橋(ドーションチアオ)という名の通りに入る。まさにこれが、思いがけない最高の散策スポットだった。六百年の歴史があるという得勝橋は、かつて武昌城の北門に通じていた繁華街で、有事の際には軍隊も此処(ここ)から出征したという。だが道幅は狭い。なんとおよそ5米(メートル)。今では、みんなの台所といった風情の市場通りである。魚屋、水果(くだもの)屋、乾物屋、靴屋、按摩鍼灸(しんきゅう)店に、理髪店や肉屋も混じる。広場っぽい開放的なマルシェではなく、地元客のみが行き交うのであろう、一本道の市場。よそ者のぼくは買い物の邪魔にならぬよう、ササッと歩を進めるが、昼どきの少なからぬ通行量に、急(せ)く足がたびたび止まる。しかも、各々が敷地内に住宅兼店舗を構えながら、商いの勝負は路傍で決まるとばかり、どこも遠慮なく往来にせり出している。正直、歩きづらい。ただ見方を変えれば、だからこそ見物のしがいがあるともいえる。下町のごちゃごちゃ感が画(え)になるし、また首を突っ込まなくても、扱う品がおのずと知れるからだ。それで結局は散策ペースを落として、のそのそ歩くことになった。商舗によっては、棒とシートを組み合わせて即席の屋根を作り、なんとか自前の日陰を確保している。ほんの数秒間だが、たびたびそんな「避暑ゾーン」を通過する。やあ、かたじけないな。だが、そうした工夫は一軒一軒の個別な創意によるもので、一致団結して屋根を設けようという方向にはならないらしい。そんなわけで、ぼくはひたすら、各店自慢の出物・売り物の姿や色彩に涼をもとめて進んだ。通りに響きわたる売り声は、ほとんどない。店先で足を止めた見込み客に、さあ、どれを買うんだと声が掛かる程度で、総じて静かなのである。涼面(リアンミエン)、涼皮(リアンピー)、煎包(ジエンバオ)、腸粉(チャンフェン)、水餃(シュイジアオ)を食わせる店もあれば(値は5元程度)、五香粉を使用した豆腐干(ドウフガン)をブロックで各種一斤(きん)3.5元から5元で売る店もある。豆腐干は照りの入った干し肉のような色で、ステンレスのバットに山積みされている。見た目は少しグロテスクだ。また魚屋には、蟹、牛蛙、青蛙、甲魚(すっぽん)、土泥鰍(どじょう)、鱸魚(スズキ)、そんな品々が雑然と並んでいる。蛙は魚と同様、トロ箱に入っている場合もあれば、ただ緑色のネットに何十匹と詰め込まれていたりもする。で、路上に放置。此方(こちら)は間近で発見するたび、不意を衝(つ)かれてギョッと驚く。肉屋は薄暗い小店が一軒、軒先の竿(さお)から鉤(かぎ)を垂らし、そこに肉を吊(つる)している。肉の種類・部位・価格に関する表示は一切ない。それで商売になるのが不可解だが、そこは地元民どうしの売り買いのこと、あまり不思議がっていても仕方がない。どこの店主も大概、ガレージのような建屋でご飯を食べたり、スマホを覗いたり、往来を睨(にら)みつけたりしている。肉屋以外は、同業もいるためか、わりと明朗な価格表示がされている(だいたいは段ボールの切れ端に重量あたりの単価が書かれているだけだが、それでも多少は安心感がある)。情報開示に積極的なのは、競合の多い八百屋だ。黄陂・孝感・東北・蘭州・雲南・房県なんて生産地名がおどるのを見て、野菜各品の遥かなる旅に思いを馳(は)せてみたりする。さらに進んでいくと、広い歩道にミカン箱大のケース数十個を積み、勝手に自分の城を築いてしまっている八百屋も登場する。野菜果物の山越しに奥を見れば、幼児を含む三世代が卓を囲んで歓談中。なんのことはない。オープンなお茶の間風景がそこにある。職と住のあいだに垣根がないようだ。いや、それどころか外見上は、商売より子守りに軸足が置かれている。はたまた、道の片側に壁が続いていたりすると、そこへまた商売道具一式を並べる者が出てくる。土泥鰍屋などは、まず水槽四つを車道に置いて、それから壁ぎわ幅1米のスペースを堂々占拠し、店を広げている。配置された道具はといえば、ビニール袋の束、血の付いたバケツ、茶色に錆(さ)びたまな板がわりの缶箱(そこに軍手と包丁が載っている)、秤(はかり)、ハサミ、あとは雑巾と、いくつかのザルに長椅子である。その逞(たくま)しい商魂に、もうどこからツッコめばよいのか分からない。そうかと思えば、買い物客もさるもので、上半身裸のよく日焼けした爺さんが、ひどく険(けわ)しい顔で果物を物色していたり、パジャマ姿のおばさんが、自転車に発砲ケースを積んで魚を求めに来ていたりと、こちらもなかなかワイルドな風情なのである。まあ、こういう場所にたゆたう時間は完全に彼らのもので、外地の者は、たとえ時間と空間を同じゅうしていても、からきし存在感がない。地元住民の正義の人間臭さに対して、ぼくなどは、いわば白旗を揚げて歩かざるをえないのである。でも一方で、かようにアウェーな土地に踏み込んで頼りない歩行者を自覚するとき、ぼくの冒険気分は心なしか高揚して、内心そぞろ歩きがますます愉快に感じてくる。

(40)武昌の古い絵葉書などを見ていると、人力車や通行人が狭い舗道にひしめいて往来していた、かつての街の風景が知れる。建物は高くても三階までで、旅館や食べ物屋、小商いの店が並んでいる。ここ得勝橋も、昔はそのように賑わっていたのかな、などと空想しながら歩くのもいとをかし。そもそも旧武昌城は、黄鶴楼以北が庶民の居住地で、南側は役所や閲兵場などが広がっていたようである。これは戦前の地図で容易に知れる。街並みの細かな部分や売り物が変わっても、街区・道路のスケール感が不変であると、歴史に寄り添う余裕が出てきて想像が楽しいものである。ぼくは途中で公衆厠所(トイレ)に立ち寄り(地図アプリで検索できるありがたい時代だ)、それからまた北上を再開し、13時54分に県華林のメインストリート西端へたどり着いた。だが得勝橋のつづきが気になり、もう少し直進する。すると、まもなく道は鉤(かぎ)型に折れて、青色のフェンスが左右を覆うようになった。通行が途絶えないので、道は旧武勝門(現在地のさらに北)へと繋(つな)がっているはずだが、壁の向こうはどうやら瓦礫(がれき)まじりの草むらといった様子であった。彼方に高層ビルが連なる。嗚呼(ああ)、此処も再開発地区か。仕方なく引き返し、県華林の一本北側の路地を歩く。これを三義村(サンイーツン)という。副食品の店や理髪店とならんで石瑛旧居という歴史建築と出会うが、残念なことに門が閉ざされている。石瑛(1879─1943)は湖北の人。若い頃に英仏に留学した革命派として知られ、帰国後に国民党政府や北京大学、武漢大学に奉職している。1930年代の建物だそうで、敷地を取り囲む古い壁も、なかなか良い味を出している。この一棟の登場により、これまでの雑然とした雰囲気が一変した。地べた中心にモノを見てきたのが、ここへきて自然と目線が上がる。いつのまにか商いはやみ、左右両側に魔改造っぽいレンガ住宅が居並ぶ、静かな区画に入った。路傍には、櫻桃小丸子(ちびまる子ちゃん)のイラストが描かれたピンク色の布団が全開で干してあったりする。この裏通りで目に入るのは、老人と洗濯物ばかりである。三義村も面白い通りだ。通り抜けは可能だが、外部の人間がまるで入ってこない。それで公道が各戸の庭と化している。長閑(のどか)な雰囲気。200米ほどで右折して道なりに行くと、急に服飾ブランドの横文字が増える。三義村地区はここで終点。ぼくは、新・観光スポットである県華林通りの中程へ出てきたのだ。そういえば、荊州では民主街(ミンジュージエ)、得勝街(ドーションジエ)、三義街(サンイージエ)を散策し、今日は武漢で民主路(ミンジュールー)、得勝橋、三義村と歩いてきた。ちょうど荊州城内外でたどったルートと同一の街路名に出会うというのも、なにか縁を感じるところである。両都市のあいだで申し合わせでもしたように、これらの通りに渋い街並みを残しているわけである。はたして、この奇跡がいつまで続くか。

なんとも開放的な「雀荘」。中高年が合わせて7、8卓を埋めていた。
得勝橋の入口あたり。此処から緑濃き「魅惑の散策路」が始まる。
頭上に所々ネットが据え付けられている。これでも幾らか微涼が得られる。
にんにくや生姜、緑豆、落花生を売る専門店も(右)。
上半身裸で果物を物色するお爺さん。
広い歩道をめいっぱい利用して野菜を売る。幼い子供は店番見習い!?
得勝橋も途中から片側が工事区域に。鶏や鳩も売られていた。
このあたりは日除けが徹底されている。開店前の肉屋だろうか。
かつて武昌城の旧武勝門があったエリア。両脇は空き地。
奥の建物が石瑛旧居(湖北省文物保護単位)。
三義村。まる子よ、そちも堅固でなにより…
三義村の東端あたり。レンガ建築にトタン屋根の小屋を併設…という魔改造ぶり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?