見出し画像

それゆけ李白マン~中国街歩き詩選~ 第61回 甲殻類を食べて黄鶴楼へ行こう!

(30)次にゆくは戸部巷(フーブーシアン)。此処(ここ)は老朽化した横町を明清風の建物に造り変えた、現代の食べ歩きゾーンである。真っ赤に茹(ゆ)でられた名物の小龍蝦(シアオロンシア=ザリガニ)をはじめ、おぼろ豆腐風の豆腐脳(ドウフナオ、豆腐花ともいう)、田螺(たにし)料理、定番の臭豆腐(チョウドウフ)の店、それからジューススタンドといった小店がずらりと並ぶ。みやげ用の菓子折なんかも売られている。観光スポットらしい、ある種のあざとさは感じるものの、このご時世、遊び慣れた中国人のニーズを当て込んだ商売である。写真を撮ったりしながら、キョロキョロ眺めてるといけない。知らぬ間に食欲をそそられる。結局ぼくは、羅森(ローソン)で腹におさめた中華まんのことを忘れ、地元武漢の名店、蔡林記(ツァイリンジー)で熱干麺(ローガンミエン)12元を、さらに路傍の小店で蟹(かに)を食べた。蟹は半斤250公克(グラム)で30元。プラスチックの盆に載ったぶつ切りの脚に、ほぼラー油といった見てくれの赤いタレが染みている。重さを量(はか)って26元(約400円)と相成った。指先と口のまわりを汚しながら、むしゃむしゃといく。とんと相場が分からぬが、ぷりぷりとして美味い。食べ過ぎかもしれないと感じながら、明日帰国の身なので好きな物を食べることにする。腹を壊さなければいい。ぼくは鞄のなかをまさぐり、日本から多めに持参した胃腸薬の所在を確かめて、いざ黄鶴楼(こうかくろう)へと歩き出した。そうそう、名物の熱干麺はタレがどうも口に合わず、半分ほど残してしまった(ゴメンなさい)。

(31)ぼくは賑々しい戸部巷を抜けて、蛇山(ださん)のふもとに到着。橋のたもとの階段を一気に上り(脇には武昌駅へとつながる鉄道線路が見下ろせる)、やっと黄鶴楼前にたどり着いた。時刻は10時半、今日もカンカン照りである。名勝・黄鶴楼が建つこの蛇山は、ほかにも長春観、龍華寺、城隍廟などの歴史建築が散在し、多くの詩人・賢者の逸話が残される一大景勝地である。古くから要害の地で、三国志の呉・孫権はこの地に夏口城を築いた。入場料70元を払い、牌楼(はいろう)をくぐると、どこから湧いたのかというほどに、元気いっぱいの中国人観光客が大集合している。お尻のおっきな欧米系旅行客も散見される。なんだか、どこへ行っても明るい人間だらけである。なんだか、みんなテレビCMの中の日本人のように、キレッキレの明るい表情で眼下の街を指さしたり、自撮りに勤しんでいたりする。自信満々というべきか、素(す)があらわれているというべきか。

(32)さあ、ぼくらの目の前には、すでに真打、黄鶴楼がお出ましである。滕王閣(とうおうかく=江西省)、岳陽楼(湖南省)とならぶ江南三大名楼の一つで、世界遺産にも指定された五層の楼閣である。高さは51米(メートル)。もともとは三国志の呉の時代の建立、のち破壊と修復を繰り返したという。現存するのは1985年の再建、つまり34年ものだ。長江水面からの高度は、都合90米におよぶ(ただし戦前の絵葉書を見るとこれが三層で、高さは現在の半分にも満たないように思われる)。伝説がある。今は昔、酒代が払えぬ文無しの道士が店の壁に黄鶴を描いて去ったところ、酒客が手を打つたび鶴が舞って、酒屋が大繁盛したという。十年後に道士が戻り、笛を吹くと、鶴が壁から抜け出し、道士を乗せて飛び去った。これを記念して、酒屋の主が楼閣を建てたと。なんだか落語の抜け雀みたいな噺である(あるいは元ネタの一つか)。それはそうと。山上にそびえる天下の名楼は、見れば見るほど壮観である。各層に橙色(だいだいいろ)の重櫓が反り返り、いかにも運気を呼びそうなフォルム。いや、大小無数の檐(ひさし)を翼に、今にも参観客を乗せてドピューッと飛んで行ってしまわないかと。そんなマンガ的空想さえ掻(か)き立てられる、なかなかファンタジックな立ち姿である。古来より、文人墨客がここを天上界または仙界への入口とみなして遊び、「いいねボタン」のかわりに雄大な詩を残していった。唐の崔顥は「黄鶴楼」を、同じく李白は「黄鶴楼送孟浩然之広陵」、王維は「送康大守」を詠み、それぞれ現在に伝わる(よかったら検索してお楽しみください)。さて、楼内の階段をひたすら上ること数分、ぼくは最上層におどり出た。回廊をめぐり、正面すなわち西方を望む。眼下には長江と大橋が直交し、武漢三鎮が一望できた。確認しておくが、周囲は大自然一辺倒でもないし、雲衝く摩天楼が集まる都心でもない。橋あり、電視塔あり、鉄道あり、学校あり、オフィスビルあり、集合住宅あり。とにかく雑多な構造物がごちゃごちゃと混ざり合っている。まさに、湖北一千万人都市のいわば原点といえる地点から、三国志・孫権による築城以来二千年におよぶ、武漢三鎮の「上書きの歴史」が望めるのである。回廊は360度、内外の客でいっぱいである(だがやはり日本人とは出会わない)。老若男女の溌剌(はつらつ)とした中国語が飛び交い、各人の自撮り棒が右に左に振られる。すごい熱気だ。欄干のそばは揉(も)みくちゃにされて苦しいので、ぼくは浅瀬で息継ぎする江豚(イルカ)のように、時おり楼内の壁画(先の伝説を古風なタッチで絵画化したもの)やそれを見つめる人たち(屋外よりは総じておとなしめである)なんかを観察して、それに飽きると、また外を眺めに回廊の人混みに飛び込む、そんなことを繰りかえした。ぼくもグッドボタンを押す代わりに、はんなりと呟(つぶや)いておこう。

  九月 蛇山(ださん)の頂
  黄鶴 游人に微笑む
  登りては看る 老若の楼内に満つるを
  下りては愛す 俗伝の人心に留まるを
  *原詩「九日龍山飲」 九日龍山飲 黄花笑逐臣 酔看風落帽 舞愛月留人

これも李白さんの詩から。現代の観光客が、みな古(いにしえ)の伝承や先人の宴に感化され、ハイになっているように感ぜられたので、そのあたりの感興を爆詠みしてみた。

(33)帰りぎわに、おみやげコーナーを覗いていく。日本の観光地の定番アイテムである、提灯や湯呑み、ペナントは見かけない。こちらの主力は櫛(くし)や栓抜き、竹製の扇、トランプ、仏像のたぐいである。あとは鶴二羽の銅像、印鑑、首飾り、腕輪、高さ約15厘米(センチ)の玉製の黄鶴楼1980元なんかもある。質は明らかに良くなっているけれど、こういう古玩趣味の品揃えは昔から変わりばえしない。心惹かれる現代的逸品は発見できず(黄鶴楼のゆるキャラなんかあれば人気が出そうなのに)。ぼくは楼より出(い)でて、さっき入場口付近で入手した黄鶴楼公園の絵地図(無料)を広げた。上質紙で、イラストは歴史絵巻みたいな立派な出来である。此処は蛇山の端っこで、山の奥にはまだまだ名所がある。だが、ここで時計は正午を示す。予定を大幅に過ぎている。それに、山歩きで体力を削(そ)がれては堪(たま)らない。おとなしく退却することにした。そう決断したとき、板東英二似のおっさんが陽気に近づいてきて、その地図はどこで買ったのかと訊ねてきた。ああ、これは免費(ミエンフェイ)ですよ、とぼく。なんだ免費(ただ)なのか、何処(どこ)でもらったんだ。ぼくは下手な中国語を駆使して教えてあげようとしたが、配布場所は少々説明しづらい地点にあった。それに、連れを待たせていそうな彼が数分のあいだ、この場を離れるのも面倒な仕儀だろうと思われた。そこでぼくは、鞄から同じ地図を一部取り出して、彼に差し出した。旅行中の習慣で、保存用に一つ取っておいたのだ。コレをあげますよ。彼はとても喜んでくれた。いいのかい、哈哈哈(ハハハ)、これはいい地図だなあ。そうでしょう、どうぞどうぞ、とぼく。謝謝(シエシエ)、謝謝、哈哈哈。彼は手を合わせて礼を言い、そうして上機嫌で人混みに消えていった。こちらも良い気分である。ぼくは、請慢走(チンマンゾウ=お気をつけて)と声をかけて彼を見送り、左様(さよう)ならと武昌の名楼をあとにした。

(34)なお余談だが、黄鶴楼の南(つまり蛇山の麓)には、辛亥革命の発端となった武昌起義の記念館がある。もとは1910年に建てられた清朝政府の役所で、のちに国民政府の地方軍司令部として使用された、赤レンガの立派な建物である。本来なら避けて通れない、武漢有数の観光スポット(中国語でいうなら必游景点、必到之処)なのだが、今回の旅ではさすがに参観しきれない。言い訳をしておくと、今回の旅はとにかく常州・羽毛球(バドミントン)観戦の日程を優先した。湖北省周遊は完全に後付けなので、中国史のおさらいもしていない。それでおのずと、この辺の革命関係史跡には積極的にのめり込めないよなあ、という感覚だったのだ。もし武漢を再訪するとすれば、次回は熱烈にこの麓エリアを見学するとしよう。

エビ、カニ、ザリガニ… 朝っぱらから甲殻類の山が築かれる。
果実系飲料、干菓子、みやげ物などの店が続く。ピッカピカ戯台もお目見え!
蛇山山上、黄鶴楼の前。ハイテンションで写真撮影に興じる人たち。
逆光だが正面はこんな感じ。よそではなかなか見られない重量感。
黄鶴楼から。左に車道、右に鉄道線路、長江大橋の先が漢陽・亀山のテレビ塔。
撮った写真を確認したり、壁画を眺めて喋ったり…楼内も賑やかなこと。
こちらは長江方面とは反対側。旧武昌城を貫く、馬の背のような蛇山。
地上階の巨大壁画。鶴に乗った道士が笛を吹いている。
1999年建造、裏っ手の「千年吉祥鐘」。39元で1回撞くことができる。
行きと同じく、線路沿いの階段で下山する。午後0時1分。

この記事が参加している募集

#休日のすごし方

54,612件

#古典がすき

4,165件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?