見出し画像

それゆけ李白マン~中国街歩き詩選~ 第3回 プレイヤーは勇者か!? 愚者か!?

(01)日出(い)ずる国から勇者が一人、いま中国の旅に出る。

(02)と、こうのっけから勇者だなんて力(りき)む必要もないのだが、本書をあの手この手で愉快なる冒険奇譚(きたん)に仕立てたいという浅薄(せんぱく)な思いが抑えきれず、ひとまずこう名乗ってみたのである。調子にノッて付け加えるならば、もちろん賢者でもよいし、英雄、君子、豪傑、大丈夫(だいじょうふ)の呼び名も悪くない。また旅人という意味の、遊子(ゆうし)なんて古めかしい言葉も乙(おつ)である。しかし、どうだろう。これでは作意がちと見え透いているようにも思える。かような一人称は主人公を見映えよく偶像化し、また作者当人の創作意欲を心地よく刺激するが、かえって彼を作為的設定のなかに溺れさせるものである。どういうことかといえば、冒頭から「吾輩(わがはい)は勇者である」とか「余(よ)は英雄なり」なんて書こうものなら、作者はきっと愚直な書き手ではいられずに、ところどころ旅先の事実をごまかして、冒険要素に満ちた妄想を作中散りばめるに違いない。また君子と名乗れば、途端に完全無欠の大人物が誕生し、凡人たる作者の手に負えなくなる。もしぼくが旅先でやたらと人助けをしたり、十手(じって)や投げ銭で巨悪を懲(こ)らしめたり、朝に夕に正義の雄叫びをあげたりしたら、それは明快にバグである。けだし主人公の仕様ミスは、物語全体に少なからぬ不整合を生み、のちのち作者自身に書き直しという遠大な苦役(くえき)を課すかもしれず、それどころか当企画自体を完全にボツにさせてしまう危険さえ孕(はら)むのである。よって本意ではないが、勇者うんぬんは取り下げよう。

(03)では逆転の発想で、自分を卑下・謙遜するのはどうだろう。作者の属性に照らすならば、むしろこちらのほうが本寸法かもしれぬ。勇者や賢者に代わる呼称として挙がるのは、たとえば、雑魚(ざこ)、匹夫(ひっぷ)、愚か者、鬼畜、社畜、カス、鼻くそ、単細胞である。はたまた、与太郎、阿瞞(あまん)、阿Q、なんてワードも浮かぶ。意外と選択肢が多くて目移りする。とはいえ、目下作者の心は平静そのもの、どれを選んでも執筆に支障はないように思えるが、かといって毎度ヘラヘラと与太郎を名乗っていては、この先いつか無謀な自虐ぶりに嫌気がさして、書きためた文章を全消去してしまう可能性も否定できぬ。そもそも阿瞞(三国志の曹操の幼名で嘘つきちゃんの意味)や阿Q(魯迅の小説作品の主人公で、最後は革命騒ぎの中で銃殺される)にいたっては全くの別人である。ここまで紙幅を費やしてきたが、やはり尖(とが)った呼び名にこだわるのはやめにしよう。

(04)そういうわけで、なんの面白みも毒もない呼称だが、ぼくは本文でも〈ぼく〉と称して旅に出る。やはり素の人格であればこそ、己(おのれ)の身体性と社会性を保持しながら、5日間の体験をリアルに再現できるというものだ。これがヒーローめいた人物像や何らかの職業人では、おのずと仮面越しの中国見聞録が出来上がってしまう。偉そうに言えたことではないが、ぼくは自分の小遣いの範囲内で、他ならぬ自分を楽しませるため、気ままに中国を歩いてきたのである。仕込みも忖度(そんたく)もない。だから、ここは等身大の歩行者ないし観察者として、自分の旅をありのままに再構成してみたい。意気込みだけでも百ページは書けるが、とりあえず「設定」の話題はここまでにしよう。出発時間が迫(せま)ってきたようだ。このあたりでさっさと中国へ飛んで行きたいと思う。日出(い)ずる国のぼくが、いま中国の旅に出る。それっ、テイクオフ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?