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それゆけ李白マン~中国街歩き詩選~ 第11回 いずれザワつく!? 青果巷(チングオシアン)

(35)さらに南へと歩いていく。文化路(ウェンホワルー)を行き、延陵西路(イエンリンシールー)を横断、それから正素巷(ジョンスーシアン)に入る。新しいビルが増え、飲食店も目に入るが、客の姿はほとんどない。まっすぐ青果巷(チングオシアン)風景区に向かう。ところでこの風景区とは何ぞや。夫(そ)れいうなれば景勝地のことなりき。有名どころでは黄山とか桂林とか、絶景自慢の景観保護地区に使われる言葉だが、わりと汎用性が高く、町並みの美観を保存している指定地区にもこの語が使用される。さて、青果巷は明の万暦(ばんれき)年間からその名が残る街路である。今から十年ほど前、地元・常州市によって一帯の保護計画が示され、七年の修復期間を経て、2019年4月に新たに開放された由(よし)である。ただ、それは素晴らしい場所じゃないかと乗り気になるのは早計で、この修復が曲者(くせもの)なのだ。このような場合、古民家がそのまま残されることは稀(まれ)で、もちろん安全上の問題もあるが、新素材によって完全リフォームされてしまうことが多い。それどころか内装にも俄然(がぜん)力が入り、場違いにおしゃれなカフェやぴかぴかのギャラリー等に大改造されることもしばしばである。だから渋好みの客にとっては、期待が大きければ大きいほど興醒(きょうざ)めなのである。

(36)はたして、常州青果巷はどうか。なけなしの好奇心をもって近づいていくと、やがて雰囲気のある四つ角にぶつかった。正面には、車両通行止めの低い鉄柵が立っている。右側の民家の壁には、丸ゴシックで「青果巷歴史文化街区正素巷出入口」と印刷された看板。さあ、到着しました。で、その民家だが、屋根裏付き平屋といった寸法の、こじんまりとした切妻(きりづま)の瓦屋根である。はっきり言って、渋い。家主はとうに転居しているのだろう。道路に面した植え込みと庭の常緑樹は荒れ放題で、なかなかいい味を出している。そして隣の民居はというと、こちらは三階建てであろうか、かなり大きな古建築で、白壁に縦横の木柱が張りめぐらせてあるところなどは、遥かかなた四川省福宝(フーバオ)鎮の古民居群のようである。小ぎれいに修復されたものより、ぼくはこういうのを見たいんだが。しかし、非情なるかな。これらの建物は高さ3米(メートル)くらいの緑のシートに覆い隠され、部外者によるそれ以上の観察を阻(はば)んでいた。オーイ(涙)

(37)いよいよ敷地内に入る。無用な失望をおそれたぼくは、あらかじめ好奇心のスイッチを切り、期待値を下げた。しばし入口で立ちどまり写真を撮っていると、そこへ花柄の日傘を差した女性が颯爽(さっそう)と現れ、風景区の中へ消えていった。白のレース地のワンピースを着て、子犬なんかを抱えちゃっている。コツ、コツ、コツと靴音が遠ざかる。またしばらくすると、今度は上下黒のスポーティーな格好をしたおっさんが手ぶらで入っていく。はて、成功者に人気のお散歩コースなのか。ぼくもつづいて進んでいくと、建物を覆う緑のシートがいつのまにか消えて、いよいよ両側に漆喰(しっくい)の壁が現れた。その壁に、山水画と詩詞の描かれた木製の灯籠が掛かっていたりする。ぽつりぽつりと、人もまばらに歩いてはいる。観光客のほか、ゆっくりゆっくりと歩行器を押す老年男性がいるかと思えば、背後からは山吹色のヘルメットに同色の半袖シャツを着用した若者が、大きなストライドで石畳の上を駆けていったりもする(彼の背中には、美団外売(メイトワンワイマイ)の文字とカンガルーのマーク。これは中国で急成長しているフードデリバリーの会社だ)。しかしなんだか、思い描いていたイメージと違うぞ。落ち着きのなさと、まとまりのなさ。なんだか不安になってくる光景だ。

(38)けっきょく青果巷にいた時間は、わずか十分ほど。ツゥーッと通り抜けただけの観光だった。なぜかというと、メインの小路がまるで映画のセットのように作り物感たっぷりで、それと工事自体も未完のため、とてもゆったりと過ごせる風情ではなかったからである。とはいえ、これもリアルな現況ではある。途中からぼくは、「いまは未完の工事現場を目に焼きつけよう。完成後に地元民たちを大勢集客できればいいんだ」なんて悟(さと)った気分に自分を誘導し、現時点の景色を写真に撮って歩いた。でも、すれ違う人はみな、実際いい表情をしていた。おめかしをした家族連れはぺちゃくちゃ喋りながら古建築の茶店をひやかして歩き、老夫婦は昔を懐かしむようすで、橋の上から舟を眺めていた。舟の上では、根気よく運河のごみや落ち葉をかき寄せる作業員のおじさんがいた。それはそれで、見ていて飽きない風景だった。中国の旅先で舟を見つけたりすると、反射的に屈原(くつげん)の詩「漁父辞」のイメージが意識にのぼって、その舟を操るのが人生を達観した名もなき哲人に思えてくる。ざわついた街中にあっても、水上には別の時間が流れている、ふだん自分を取り巻く世界とは異なる、時の流れがある、などと考えてみたりする。そこにたゆたう舟と人を見ていると、思い詰める気持ちがふっと和らぐ。だから、歩みを止めてぼんやりと、運河や舟を眺めたくなるのだ。ぼくも、そしてたぶん彼らも。近い将来、この新スポットが完成して、大勢の観光客が食べ歩きしたり、自撮りしたり、談笑したり、諍(いさか)いをしたり、将来を語ったり、そんなふうに思い思いの時間を過ごすようすを想像し、ぼくはひとり莞爾(かんじ)と笑ひてこの風景区から退出した。

まるで森のように繁茂した樹々と、堂々と立ちはだかる白壁の邸宅(右側)。
突如デリバリーサービスのドライバーに追い抜かれる。
抜け感が良く、たしかに見映えはするのだけど・・・
放水により葉を淵へ寄せるの図。かつての水上の往来をしばらく想像してみた。
ここにも渋い建物がポツンと1軒。うーん、一足遅かったか・・・
どうか安全第一でお願いします。いつかまた来るよ。

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