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アッパス・キアロスタミ『クローズ・アップ』(1990)

アッバス・キアロスタミ監督の『クローズ・アップ』は現実の映像と再現された映像が交互に差し込まれる、ドキュメンタリーとフィクションの境目がないような映画である。この映画では、現実の実際の映像と再現の映像が対立するというよりも、等価・同列に扱われている。
一般的に、我々が映画を見るとき、無意識的に、これはドキュメンタリーでこれはフィクションだと分別して観ている。そして、ドキュメンタリーにはドキュメンタリーの力があり、フィクションにはフィクションの力があることを感じ取っている。しかし、この映画では、異なるいわば対立した現実と虚構が等価・同列に扱われている。このキアロスタミ的方法は現実をどのように呈示するのだろうか。そしてその方法はどのような力を持つのだろうか。
 まず、一次的なものをとらえるドキュメンタリーの場面であるが、これはドキュメンタリーであるということが明確に示唆されている、裁判所のシークエンスや、最後にサブジアンが刑務所から出てきて、彼のヒーローであるマフマルバフに会うシーンである。前者はカメラの質が変わり、現実の映像であることが示される。後者は監督の声と思われるオフの声で「撮り直しはできないぞ。」というのが入ることによって現実の映像が呈示される。ドキュメンタリーの特異性はその一発しかない、他の可能性を消しながらたった一つの現実が現前するというその一発に賭けることの力である。それは、一発しかない、こうであったことの事実の力で観客を魅了する。この映画でも、その現在性というものが常に肯定的にとらえられている。最後のシークエンスでも、音声は途切れがちである。これは、失敗をも肯定的にとらえるという監督の姿勢がみえる。さらに、この音声の途切れは、いわばキアロスタミ監督やマフマルバフの失敗であるという、撮影者、演者の構成による失敗という面でフィクションであるということができる。さらに、マイクの調子が悪いという物理的な原因、映画を撮るということに必要な物理的部分があえて映し出されているという面でフィクションであるということができる。有限性とは手が届かない、どうしようもない領域ではあるが、映画に必要な技術的・物理的な有限性は、映画を撮っているが故のことである。ここにはドキュメンタリーだとしても、やはり監督の意図が入り込んでしまう領域があることそして、それを隠すことなく混入させ、それによって変化してしまうものが多くあるということを肯定することで先に進むことができる力がある。
 次に、再現された、二次的なフィクションの部分である。フィクションの力というのは、監督が綿密に練り上げた脚本または演出、構成などで示される監督の物語や思想の力である。また、この映画の再現映像は、すべて実在の人物が本人役で出演している。つまり、再現しているのは本人であるが俳優としては素人である。自らを演じるということではいわば本物のようだが、カメラの前で演技をしたことがない人々が演じている。このような場合、フィクションで重要な監督の意図が俳優には再現できない領域があると思われる。つまり、監督の手が届かないその人自身の演技が映し出されることになる。ここでも、一つの限界、どうしようもないような不可避な部分をも肯定的にとらえることで先に進めるということが示されている。
 これらのように、いわば限界、有限性、どうしようもなさを肯定的にカメラでとらえるという監督の姿勢が、サブジアンがマフマルバフをどうしようもなく、不可抗力で、ある本人の手の届かない限界で演じてしまったことや、空軍であったが今は陸軍(タクシードライバー)になってしまったこと(空を飛ぶ飛行機から転がるスプレー缶の暗喩)、録音機が見つからず右往左往する記者など、彼ら・これらのどうしようもなさをも、肯定的にとらえる道を作り出している。肯定することは前に進む(人生を続けるもしくは映画を続ける)ことである。ここに、この映画の力がある。持続こそが映画であるのと同じように、人生も持続である。この映画は、ただ垂れ流すのではない持続であり、生の力強い肯定に満ちた持続・映画である。有限性を肯定することで先に進めるということは映画にとっても同じだろう。つまり、キアロスタミ監督にとっては、ドキュメンタリーとフィクションは対立するものではない。これまでの映画は、ドキュメンタリーはフィクション性を押し隠し、フィクションはドキュメンタリー性を押し隠していた。しかし、この映画では、どこかの限界で手がとどかないところで隠してきたものが入り込んでしまう瞬間をとらえ、肯定することで、これまで隠してきたものたちを解放する新たな映画の在り方が示されている。

*この記事は2019年に書かれたものです。

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