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飛べよ孔雀、牢獄の上に、哀れな囚人たちを解放するために…コダーイ・ゾルターン”「孔雀の主題」による変奏曲”





今回もまた「国民音楽」がツボに入ってしまった。ハンガリーのコダーイ・ゾルターン(1882-1967)の楽曲から。

ハンガリーはトルコのオスマン帝国とオーストリアのハプスブルク帝国というイスラム教とキリスト教の二つの大国に挟まれ、独立運動を起こしては押さえつけられてきた苦い歴史があります。コダーイの時代では、音楽とはすなわちドイツ音楽であり、政治面でも親ナチス政権による圧政がありました。コダーイはハンガリー初の本格的な民族音楽研究者としてこの現状と闘った人です。




変奏曲は一つのメロディを様々なリズム・テンポ・強弱やメロディラインの変形と曲想の変化を加えることでいくつもの小曲を生み出しそれを一つの大きな音楽としてまとめていくという形式です。

たった一つのメロディが万華鏡のようにきらきらと表情を変えて輝き、ふと気が付けばそれらが一つの大きな絵を作っている。なんとも贅沢で美しい体験です。超一流のシェフだからこそできる一つの素材を使ったフルコースとかそういう感じでしょうか。そんなん食べたことないけど。

この曲でコダーイが用いる「素材」は、自身がエジソンの蓄音機を担いで集めて回った民謡で、オスマントルコの支配に対する自由の賛歌として歌い継がれてきた農民歌。孔雀はハンガリーの人々にとって特別な希望を象徴する動物であるとのことです。火の鳥みたいなものか。いやあんな鬼畜生物と一緒にしちゃいけねえな…


„Fölszállott a páva a vármegye-házra, Sok szegény legénynek szabadulására.”
「孔雀が止まっている 郡の役場の上に 多くの貧しき者たちに 自由を与えようと」


曲の始めでファゴットやコントラバスによって重々しくつぶやくようにテーマが提示されると、クラリネットとファゴットによるおじいさんとおばあさんがおりましたという二重奏へ。そこに弦楽が加わると一挙に幻想的な雰囲気にかわり、「バリエーション」が始まります。

時には長閑に、時には跳ね踊るように、時には激しく重苦しく、「孔雀」のメロディは表情を変えながら進み、圧政の苦しみをほのめかすような陰鬱な葬送行進曲を経ると、フルートとピッコロによる長大で華麗なソロを合図に、孔雀が羽根を広げるような壮大なフィナーレへとつながっていきます。

ドビュッシーの「海」を思い出すうねりと熱狂。しかしこちらは自然ではなく人々によるうねり、希望、切望。声ならぬ声。そういった感じがします。

コダーイという人は民謡研究を通じて「音楽は一部の上流階級や大国のものではなくみんなにあるもの」「したがって音楽とはピアノやバイオリンの前にまずみんな持っている楽器=声である」という哲学に至り、非常に多くの合唱曲を作った人です。孔雀の合唱曲もこの曲に先立って書かれています。だからでしょうか、器楽曲にも「声」の存在を強く感じます。この曲のうねるような音の波には誰かの声のような、心に入りこむものがあるような…。

それが当時の政府当局にも伝わったのか、この曲は即刻ハンガリー国内での上演が禁止されてしまったようです。 まあ、あからさまに反ナチスの声なのだ!という感じなので致し方ないですね…w

それでもコダーイ管弦楽曲の最高傑作としてこうして現在までしっかり残っています。日本では吹奏楽コンクール用にカットした編曲が一時期とても流行りました。

コダーイの教育分野での功績もあり(「コダーイ・メソッド」と呼ばれています)、ハンガリーでは民族音楽は今でも身近な存在のようです。民族音楽オーディション番組の名前が「孔雀」というのもアツイものがあります。




コダーイの起こしたムーブメントが現在のハンガリーをいくらか形作っていると思うと、音楽ってやつはなかなか力のあるやつだなと元気が出てきます。


「私が強く確信していることは、音楽がともにある生活をするのにふさわしくなればなるほど、より幸せな人生を歩むことができるということだ。どのような方法であっても、そのために自らを捧げる者は、決して無駄な人生を歩むことはない。」―コダーイ・ゾルターン