Spotify「Muse 20」
2nd「Origin Of Symmetry」のリリースが 2001年なので、Muse を聴きだしたのは 21世紀になってから、ですね。3rd「Absolution」が 2003年。この時期 (=アラ 40) ぼくが集中的に、かつリアルタイムに、追いかけていたバンドのひとつが Muse であって、他には、Sigur Ros、Mew、Linkin Park、といったあたり。ただ Muse に関しては、その伏線として Radiohead の存在が大きかったのは間違いありません。
Radioheadの反動
というのも、97年「OK Computer」00年「Kid A」と次々に出世作/問題作を発表してきた Radiohead が、ちょうどこの時期、その知的アプローチが袋小路に入りだした兆候があったからです。詳細は Radiohead の個別記事で述べるとして、要は「能書き」を聞かされることにウンザリしたというか、ロックの原初的な欲求に飢えたというか。そこへ彗星のごとく現れたのが、Muse であり、Coldplay であったように思います。つまり、四の五の言わずにノリのいいロックを聴きたい、ストレートにヘドバンさせてくれるライブに酔いたい、そういった Radiohead の反動が時代性としてあったのです。
21世紀に入って出現したこれらのバンドには、共通項としてライブ・アクトの素晴らしさが挙げられます。同時期、アメリカでは Linkin Park が台頭。絶対的なファンの後押しによって、ライブを通じてともに成長する。それは、ある意味、正統的なロック・バンドの在りかたでしょう。
美点/Creativity
Muse サウンドの特徴は、なんといっても Matt が創る・歌う・奏でる楽曲の様式美にあります。ラフマニノフ好きを公言して憚らない Matt は、ただの優れたソングライターには留まりません。ギターはうまい、ピアノもうまい、ファルセット込みの歌もうまい。しかも、ほとんど独学でマスターしたのですから、間違いなく天賦の才がありますよね。さらに特筆すべきは、曲中の盛りあげかた、大衆を感動させるメカニズム、といったものを自然に身に付けている点。そういう意味では、たぶん生まれつきのエンターティナーなのだと思います。はじめて「New Born」を聴いたときは、静かなる序章からのハード・リフ、からの疾走感、からの速弾きギター(3分30秒)、に鳥肌が立ちましたよ。ここまで聴衆を堪能させる術を知っているとは。
Matt だけではなく、Muse はバカテク・トリオ編成のバンドです。それをあえて喧伝しないところに、また大物感があります。「Hysteria」がもっとも分かり易いでしょう。出だしの Chris のベースはあまりにも有名ですが、この曲におけるドラム Dominic のプレイも聞き逃せません。
飛躍の方程式
新作アルバムを 2・3 年おきに発表したのも、Muse には最適なインターバルだったのではないでしょうか。その都度ライブを行い、その都度だんだん規模が大きくなり、新たなファンをがっちり獲得する。この好循環が、アルバムごとにライブを通じて実感できたのは、ファン/アーティストとの一体感を高めるうえでも有効だったように思います。そして新作が出るたびに、必ずファンの期待を満たしつつ、なおかつそのちょっぴり上方に新基軸 (新趣向)を設定する、つまり、決してファンとの距離感を見誤らない前進が、着実にメジャー・バンドへの道を定めたのでしょう。
だから、ぼくのプレイリストでも 2nd「Origin Of Symmetry」〜 5th「The Resistance」の楽曲がメインで採用されています。もっとも親近感が感じられ、徐々にスケールアップするのをともに楽しめた期間、とでも言えるでしょうか。
天下を獲る (夢を叶える)、その目標を応援していて楽しいのは、実際に天下を獲る (夢を叶える) までの上昇過程です。ファンが自己投影できるのもまさにこの経緯であり、ひとたび実現してしまうと、あとは落ちるしかありません (よくても現状維持)。
ぼくの目から見ると Muse のピークは「The Resistance」であり、2012年の「The 2nd Law」以降は、もはや別世界へ行ってしまったような印象があります。メジャーに成りすぎて (ただのロック・バンドではなくなり)、音楽産業としてのプロジェクトを遂行するための道具的存在のような。それに気づいたのが 2010年の The Resistance Tour でした。「Uprising」で四面すべてがスクリーンの巨大な四角柱が三本、舞台上でそびていたのには驚きました。そのスペクタクルな壮大さよりも、巨大な四角柱で演奏していたメンバーの小っちゃさに。映像で見る以外には、メンバーの汗を、息遣いを、感じることはもちろん叶わず、徹頭徹尾プログラムをこなすためにだけ楽器を弾いている、そんなふうに見えて仕方なかったのです。
その感覚には、どこかで既視感が……。そうです、テーマパークのアトラクション……。ディズニーランドのような体験型の一大エンターテイメントとして、いまやロック・コンサートは徹底的に商品化されています。クライマックスのアンセムから、お約束のアンコールに至るまで。そして今日、音楽業界でビッグになるということは、不可避的にその宿命を背負わなければならないのでしょう。Epic Rock――。
宿命/Epic Rock
Epic Rock の語感に、サウンドの質やジャンルの系譜は含まれません。しかしこの単語には、70年代後半の産業ロック/アリーナロックの響きがあります。歴史は繰り返します。まったく同じではないにしろ、その不可逆性には Muse ファンとしてどうしても老婆心をくすぐられます。
近年の Muse を振り返ると、事実 2010年代以降のアルバムは音圧のパワフル化と音質のエレクトリック化に勤しんでいるだけ、のように聞こえるのです。期待した新作に耳を傾けても、ときめきが無くなったのはぼくだけでしょうか。新作ごとにテーマを替えているとはいえ、また仮想敵に反体制のポーズをとっているとはいえ、数多ファンの実像を本当に代弁できているのか、と首を傾げたくなります。なんとなれば「あんたらこそ現体制の勝組です、見事な成功者です」といった声は、認めざるをえないでしょうから (それが現今の、後期資本主義の、リアルだとしても)。
本来のエモーショナルな美メロの刷新性はどこへ行ったのでしょうか。現今のリアルで言うなら 、高度な消費社会ではアーティストの才能でさえ「ケツの毛まで抜かれる」ほど貪り尽くされます。Muse の創造の源である Matt にしても、その現実からは免れません。しかし、そこは才能豊かな Matt のこと、インプット面を刺激するようなコラボでもすれば、また新たな音楽性を開花させるかもしれません。
あるいは、超メジャー化したアイコンだからこそ、それを逆手にとって (初心に戻って) 完全覆面ゲリラ・ライブを行ってみるのも「あり寄りのあり」ではないでしょうか。ニューヨークやロンドンの地下鉄駅で、完全に仮装/覆面した三人のみでオリジナル曲を演奏するのです。通りすがりの人々は、ただのトリビュート・バンドぐらいにしか思わないはず。そのうち「もしや本物か?」とざわつきはじめたらサッと退散、絶対にバレないようにしなければ、それこそ大騒ぎになりますから。その一部始終を観客側からスマホで撮影しておき、1ヶ月後 Youtube にアップすれば……。Banksyっぽいうえ、もはやステレオタイプになったスタジアム・ライブよりは、ずっと新鮮で革新的だと思うのですが……。
真のファンだからこそ、ぼくは「大きなお世話」を送ります。その先にはもうなにもないよ、と。
それでは、また。
See you soon on note (on Spotify).