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13歳の臆病者*

R50+  5500文字  1970年代初期
中1 (13歳) のおもいで  個人的懺悔
※興味のないかたはスルーしてください※

イントロ・タグ

T田さんと同じクラスになったのは、小3 (1970年) のときです。ぼくが通った公立小学校では、奇数学年のクラスが持ち上がるため、彼女とは小3~小4の二年間を同級生として過ごします。とても小柄な、ショートカットの黒髪が艶々とした女の子でした。黒目勝ちの瞳が印象的で、なにかの拍子に目が合うと、少女漫画の主人公さながら黒目のなかには星が煌めいていました。T田さんはいつも女子グループの中心にいました。勉強もよくでき、屈託のない笑顔を誰彼となく振り撒く、大阪弁で言うところの「かしこ」を地で行く人気者でした。


1970年~小学3年~

ぼくの親友/悪友 S木くんと出会ったのも、小3時のこのクラス。実は三人とも同じ幼稚園を卒業していたのですが、およそ幼児期の記憶は曖昧で、同級生になってはじめて共通認識を持ったのです。その S木くんの実家のすぐ裏手が、T田さんの家でした。古びた木造長屋で、周囲よりもくすんで見えました。いわば二人は幼馴染み、「ええこと言うたろか」と S木くんは自慢げに彼女の秘密を教えてくれたものです。「T田さんとこ、お父ちゃんもお母ちゃんもおらへんのやで」「えっ?」「お婆ちゃんと二人で暮らしてんねん」「ふうん」。ぼくのリアクションは、きっと S木くんには肩すかしだったでしょう……。実際は、それがどういうことなのか、なんて応えればいいのか、小3のガキには分からなかっただけ……。

S木くんの家へ遊びに行くときは、決まって T田家の様子を伺いました。彼女の玄関先だけが並びの家とは違ってきれいに掃かれ、まるで打ち水のあとのように塵ひとつありませんでした。それが、ぼくには彼女自身の雰囲気と妙にシンクロします。どこか凛とした、芯の強さ

小学校では、学期ごとに学級委員を選ぶ「行事」がありました。男女一名ずつを無記名投票によって選ぶのですが、生徒にとっては人気ランキングの発表みたいなもの、先生が紙きれに書かれた氏名を読みあげるたびに、「正」の字が黒板に増えるたびに、生徒たちは歓声をあげました。もちろん女子は T田さんの完勝、結果はいつも同じなので、そのうちみんなの関心は得票数の多さに移ります。あっ、男子のほうはぼくだったのですが (さーせん)。クラス代表で会議に出るときなど、ぼくと T田さんはいつも一緒でした。二人になるのが嬉しくて、柄にもなくぼくは学年会議が楽しみになりました。

ただ、まだ恋心と呼ぶには早すぎたと思います。あの時代の、あの年頃の、子供たちはいまよりも純朴で、情報量も画一的だったのです。

思えば、T田さんとはそれから高校卒業までの 10年間をずっと同じ学校で過ごします。しかし、告白したり交際したりといった「色恋沙汰」は一度もありません。というよりも、彼女を恋愛対象として見るには (性の目覚めを知るには)、ぼくは幼なすぎたのでしょう。小3・4のハナタレ小僧には、星座占いが流行れば T田さんの乙女座を調べ、ドッヂボールのときにはわざと T田さんばかりを狙う、それが何なのか、全然わかっていませんでした。今日のようにスクールカーストなんて存在しない牧歌的な時代、クラス中が一目置くように、ぼくもまた彼女を「大切な人」だと思っていました。

たぶん、日本人の大半が芦田愛菜ちゃんに覚えるようなイメージだろう、と思います。いい意味で、美人偏差値を好感度が上回る

1971年~小学4年~

このときのクラスがとりわけぼくの記憶に残っているのは、担任の先生が強烈だった所為もあります。小4に上がって変わった担任が、産休から戻った T柄先生。当時28歳のリベラルな教師でした。1970年頃といえば、テレビ番組がみんなの最大関心事でしたが、T柄先生は生徒といっしょになって前夜の歌謡ショーやホームドラマの話題を授業に持ち込みました。低俗番組であろうが、サブカルであろうが、常に子供の目線に立つ、たぶんそういった教育信条があったのでしょう。興が乗ると先生みずからが歌いだし、ホームルームがたちまち紅白歌合戦になることも。ぼくが「また逢う日まで」を、T田さんは「知床旅情」を、それぞれトリで歌ったのを覚えています。「歌も上手いな」「お婆ちゃんがテレビ見せてくれへんらしいで」。

T柄先生はプライベートでも親しく接してくれ、S木くんとぼくはよく先生の自宅まで遊びに行きました。すると T田さんを含めた女子数名も訪問したらしく、それはおたがい T柄先生が担任を離れたのちも続きました。T柄先生が次男を出産したときは、S木くんとぼくが名付親になります。長男の名前がタケシだったので、当時のヒーロー「超人バロム 1」のもう片方の主人公名からケンタロウを推したところ、マジで採用してくれたのです。

恩師、という言葉はぼくらにとって T柄先生のためにあります。その 4年 T柄組、最大最強のおもいでが「恐怖の席替」。T柄先生が担任になってはじめて実施した席替です。「はいっ、いまから席替をしまーす。全員、教室の後ろに行きなさーい」。

当時ぼくらの小学校で使っていたのは、二人掛けの長机です。男子と女子が隣同志に座るのですから、もちろん席替は一大イベント。T柄先生に促されて教室の後ろに整列すると、しかし先生はこう続けたのです。「女子は好きな席に座っていいよ、レディーファーストやからね。目の悪い子は前に座っとき、そう、そうそう。はい、女子はみんな座ったね、大丈夫ね。じゃ、次は~、男子、男子は~、好きな~、女の子の横に座りなさーい」。

今日なら人権問題でしょう。それこそ PTAも教育委員会も卒倒するに決まっています。しかし、当時は人権をカバーするだけの共同体の包容力がありました。事実、女子の黄色い悲鳴&男子の青い怒号が飛び交っても、みんなハイ・テンションで嬉々としていました。男子はたがいに顔を見合わせ、どうする? の牽制です。みんな狙うのは T田さんの隣、そこだけスポットライトが当たっています。少なくともぼくはそう思っていました。ここは高みの見物で、誰が彼女の隣に座るのか、見てやるつもりでした。「じゃオレは窓際にしよっと、陽当りエエもん」トップバッターが動くと、「トイレの近くにしよっと」「先生、視力わるいから一番前でもいいですか」。いやいや、そんな弁解いらんねん、とぼくは思いながらも、あれっなんか変な空気。

徐々に棒立ちの男子の数が減ってくると、まだ T田さんの隣席が空いていることに違和感を覚えます。そして、不意にぼくは気づきます。男子同志で牽制しあっていたその中身が「どうする?」ではなく、「T田さんの隣はやっぱりあいつ=ぼくやろ?」の確認だったことに。何人かの女子がクスクス笑い、噂を検証する決定的瞬間を見定めようとしていることに。あかん、あかん、そんな恥ずかしいことできへん。公開処刑やんか、これ。もうぼくは金縛りです。心なしか T田さんの微笑もひきつっています。辛いのは T田さんのほうかも? もしぼくが他に座ったら T田さんはどうなる? どうしよオレ? どうするオレ! ぼくは腹を括ります……。踏みだした上靴の足音だけがひとりでに歩き……。

1974年~中学1年~

小5でクラス替えがあり、T田さんとは離れ離れになりました。普段、顔を合わさなくなると、彼女の存在もまた薄らぎました。日常生活に近視眼的になるのが、子供というものです。そして、早熟な子が第二成長期の変化を見せ始めるのも、この年頃。異性の関心は、見た目 1st・可愛さ 2nd になり、学力や人間性なんてアウト・オブ・眼中に変わります。アイドルに熱をあげる子、急に大人びてクラスの人気 No.1 に躍り出る「隠れていた新人」。

ませた男子連中は、誰それがブラジャーを着けた、とか、誰それはもう生えている、とか。そういえば、T田さんを次に意識したのは、小6 の連合運動会だったような。学校を代表する 4×100m リレーのメンバーに、彼女は選ばれていました。相変わらず身長は低いのに、はちきれそうなトランジスタ・グラマーが躍動していました。あかん、なに見てんのっオレ、と思わず自分自身を嗜めたのは、やはり T田さんはどこか別世界の住人でいてほしかったからでしょう。あっ、ちなみに男子 4×100m リレーのアンカーはぼくだったのですが (さーせん)。

そして1974年、ぼくらは中学生になります。二つの公立小学校が合わさるので、生徒数は単純に二倍になります。ぼくは新しい顔ぶれに興味津々で、ぼくらの小学校とは異なるほうの出身者と積極的に交流します。I 藤くんと知り合ったのもこの年。最初の学年会議で各クラスの学級委員が顔合わせをしたとき、I 藤くんが T田さんと一緒に並んでいました。あっ、T田さんやっぱり学級委員なんや、とぼくは思いました。向こうもたぶんぼくを認識したはずですが、具体的に言葉を交わすことはありません。まだ板につかないセーラー服と爪入り学ランの、ぎこちない再会です。

しかし、本当の再会はその 2ヶ月後にやってきます。再会というより、ぼくにとっては再演 (リベンジの機会)。

六月の衣替え、白シャツがまぶしい季節でした。そのニュースは突然とびこんできました。「おい知ってるか、10組の T田、腋毛ボーボーやぞ」。「ええっ!」。瞬間、意味がわかりませんでした。人違いじゃないのか、とも思いました。「なんで?」「そんなもん知るか、とにかくボーボーなんや、丸見えやで」「なんで?」「見に行こっ」「嫌や、そんなん」「おまえが照れてどうすんねん」「なんでやろ?」「自分で訊けや」。ニュースを持ってきたのは悪ガキ。すぐに10組の I 藤くんにも確かめました。「そうなんや、挙手するときも真直ぐ手あげて」と I 藤くんは不思議そうでした。「気ついてると思うんやけど」「友達は教えたれへんの?」「どうやろ、女の友達はようわからんし」「担任は女やろ」。その日からぼくはもう眠れません。

きっと T田さんのお婆ちゃんは知らんのや、ムダ毛の処理とか。T田さんは教わってないんや。正直、胸が張り裂けそうでした。ずっと大切にしてきたものが踏みにじられるようでした。T田さんが決して裕福ではないこと、女子の下剋上、みんなで笑いものにする残酷さ、そして健気に「正論」を貫こうとする T田さん。違うやん、発育上なにも恥じることはない、って思てるやろ、T田さん、それは違うで、みんな嗤ってるんやで。

想像してみてください……。テレビの向こうから、腋毛ボーボーの芦田愛菜ちゃんが手を振るところを……。

リベンジの機会

一体どれくらい眠れない夜を過ごしたでしょう。心のどこかには、きっと 3年前の「恐怖の席替」事件がわだかまっていたのだと思います。ところが、いざ学校に行くと、そんな素振は 1ミリも見せない見栄っぱりのぼくがいました。新入生の人脈派閥はまだ流動的で、ちょっとワルの風を吹かせる連中とつるんでいると、引けに引けない場面がありました。「T田の腋毛、見にいこ」「嫌や」「なんか怪しいなあ、T田のこと好きやろ」「違うわ」「じゃあ 10組に行って、T田は腋毛ボーボー、って叫んでこい」「お安い御用じゃ!」。休み時間、10組の廊下には野次馬の人だかり。

廊下側の窓から、男子生徒たちが教室内を覗きこんでいます。ぼくが頭でその人垣をこじあけると、T田さんとバッチリ合った目線。大丈夫、正直に話せばええんや、ちょっと呼び出して「ムダ毛処理はしたほうがいいと思います」って、それだけ言えばええんや、落ち着けオレ。「おーい T田、ちょっと来て、こいつが話あるんやて」。ヒューヒューと囃し立てる野次馬。T田さんは 1秒クビをかしげ、ぼくを認めると少し悲しそうな表情を浮かべました。おまえまでからかいに来たのか、と言われるようでした。と、突然フラッシュバックが……。この光景は見たことがある……。

小4の席替、最後まで、ためらったぼく、上靴の、キュッキュッという音が、ひとりでに歩き、幽体離脱でも、したかのように、ぼくは、T田さんの隣に、座ろうとした、はずなのに、全然はなれた、右隅の空席に。座った瞬間、聞こえた、小さな悲鳴、信じられへんわ、空気よめよ、といった、冷ややかな、眼差し。あのときも 、T田さんは悲しそうな表情を、ほんの一瞬だけ、見せた……。今度こそ、ぼくは、ちゃんと言わなきゃ……。

「T田さん、久、久しぶり」
「…………」
「あ、あのさ」
「……うん……」
しっかりしろオレ。
「あの、T田さん、クラブどこに入んの?
「えっ、まだ考えてないけど」
「オレ、陸上かバスケかで迷ってる
「……うん……」
なに言ってんのオレ。

ぼくに言えたのは、それだけ、たったそれだけでした。クラブはどこに入るのか、それが T田さんとまともに会話した最後でした。

あのとき、ぼくはどうすれば良かったのでしょう。最適解があるのなら、いまでも知りたい、うん。そして、還暦を超えて思うのは、T田さんとの出会いかたがもっと違う形なら、ぼくらはどうなっていただろう、といったパラレル現実の可能性です。育った地域も、時代も、たぶん知的水準も、ほぼ同じだったわけで、価値観が合うという意味では (星座占いの相性もバッチリなので)、おそらく人生最高のマッチ度だったと思います。

高校卒業後 T田さんは教育大に進み、小さい頃からの夢だった学校教員になったそうです。T柄先生から教えてもらい、ぼくはなぜか安心したのを覚えています。言い忘れましたが、恩師 T柄先生への御宅訪問はその後もずっと続きました。就職、結婚、出産、人生の節目節目でお邪魔しては、それが定点観測の役目を果たしました (年賀状のやりとりは現在も続いています)。なんの根拠もないけれど、きっと T田さんも同じように欠かさず年賀状を出しているだろうな、といった確信はあります。そして、良妻賢母で幸せに暮らしているだろう、と。

それでは、また。
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