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ズルレイのピラミッド

R50+  4700文字  1980年代風物 
墓参巡礼記  パワースポット御利益
※興味のないかたはスルーしてください※

イントロ・タグ

今回はちょっと趣向を変えて、文学/哲学関係の話を綴ります。といっても、そんなに大層なものではなく、例によってぼくの個人的なおもいでの一頁です。触発されたのは、↓ の「墓マイラー・カジポン氏」。カジポン氏がこの「墓参巡礼」を始められたのは1986年ですが、ぼくも1983年に同様の活動を行っていたのです。似たようなことを思いつく人はいるもので、偉人のお墓というのは、なんといっても圧倒的なパワースポットですから。1983年にぼくが訪れた墓所のなかでも、特に印象深くて忘れられないのが、これからご紹介する二箇所です。

1983年のビンボー旅行

1982年、ぼくはイギリスの語学学校に留学しました。この学校を選んで良かったのは、英語を母国語としない欧州各国はもちろん、中東アラブ、東南アジア、等々世界中から生徒が集まってくることでした。特にサマーバカンスには 1・2週間の短期ステイと語学留学がパッケージになったプログラムがあり、欧州からそれこそ老いも若きも英語を学びにやってきます。一夏を同じクラスで過ごした友人たちがそれぞれ帰国したのちも、手紙のやりとりを続けたぼくは、翌1983年、バックパッカーとして二ヶ月間の欧州旅行を計画します。要は、一宿一飯の恩義に甘えて友人宅を泊まり歩こう、というビンボー旅行ですね。誰かが言ったように、若い頃のこういう経験はきっと人生に役立つのです (ホンマかいな!)。

ユーレイル・パス、トーマス・クック時刻表、「地球の歩き方」を三種の神器に、ぼくはドーバー海峡を渡りました。せっかく欧州を巡るのだから、行ける範囲の墓参巡礼を目的に加えよう、と決めました。実はこれには伏線があり、留学当初ただの観光目的で訪れたはずのマルクスの墓に深い感銘を受けた、という体験があったからです。静まり返った空気、厳粛な安らぎ、緑の葉々から射す木漏日、参拝している人達の祈り。

哲学者の墓より

ウィトゲンシュタイン

マルクスの墓でパワースポットの威光を浴びたぼくは、他にもイギリス国内の有名人墓所を訪れます。ケンブリッジで立ち寄ったウィトゲンシュタインの墓もそのひとつで、これが予想外に/独特の意味で素晴らしかったので、ぼくの墓所探索はいっそう後押しされていたのです。

一般に偉人といわれる人々には、作品/業績よりも作者自身の実人生のほうが興味深い対象 (芸術家・学者・作家) がいます。たとえば (ぼくの場合は)、カフカ、ゴッホ、ニーチェ、です。ぼくはカフカがいちばん好きな作家なのですが、文芸評論的な関心はなく、ドイツ語ネイティブでもありません。それでも、カフカ全集は池内紀版までの 3セットを所蔵して愛読、ある時期までカフカ関連本は根こそぎ読み漁ったものです。で、そのうち気づいたのは、カフカの作品自体よりも「父への手紙」「フェリーツェへの手紙」あるいは「日記」のほうが面白いかも、ということでした。同様に、ゴッホの絵画を鑑賞するにしても、ほくは「テオへの手紙」や評伝を必ず念頭に置くようになりました。
 
このタイプは、卑近な例を挙げればキリがありません。初代桂春団治もそうですし、坂田三吉もそうです。ぼくは落語も将棋も素人ですが、彼らの伝記が再映画化されれば絶対に見たい。音楽シーンで言えば、Sinead O'ConnorSalif Keita などもまさにこのグループでしょう。彼らと同一線上で、哲学者ウィトゲンシュタインもぼくには関心の的でした。彼の伝記を読めば読むほど、その人生に惹かれました。

↑ の wiki を通覧するだけでも、ウィトゲンシュタインの人生が脳裏のスクリーンに映しだされるようです。あいにく、この記事で彼の業績や偉大さを紹介する余裕は (能力も) ありません。しかし、ぼくのような凡人でも彼の実存主義的な「孤独」には共感できます。また、天才ゆえに俗世間から受け入れられなかった不遇にも。幼い頃からの吃音、自殺傾向の強いユダヤ家系、第一次世界大戦における従軍、ノルウェーでの隠遁生活、若くして物した「論理哲学論考」、その最後の一文 ~語り得ぬものについては、沈黙しなければならない~。孤高で破天荒な人生を彩る逸話には、事欠かないのです。

ウィトゲンシュタインの墓は、ケンブリッジのトリニティーカレッジから歩いて30分ほどの、旧セント・ジャイルズ墓地にあります。1982年当時はもちろん観光資源として宣伝されず、街のインフォメーションでも要領を得ない説明だったのを覚えています。墓地までの道すがら、遠くにアメリカン・セメタリ―が見えました。白い十字架が整然と並んでいるので、旧セント・ジャイルズ墓地に到着すると、あまりに対照的な古色蒼然とした雰囲気にいっぺんに呑まれました。日が暮れかかっていました。ホラー映画に出てきそうな墓守人が、不愛想に竹箒で落葉を集めていました。「ウィトゲンシュタインの墓はどこ?」と訊くと「あっち」と顎で指すだけ。辛うじて読めた氏名と生没年に、言いようもなく溢れてきた涙。

大正大学HPより
大正大学HPより
New World Encyclopedia より

あのような体験は、ぼくの人生でも数えるほどしかありません。あまりにもスピリチュアルに感動したので、1983年3月には、春休みを利用してイギリスまで遊びに来た N川くんと再訪したほどです。このときも、打ち棄てられたような寂しさに二人して言葉を失い、かえって貴重な共通体験を刻むという恩恵を授かりました。このウィトゲンシュタインの墓で覚えた強烈な高揚感が、ぼくの墓参巡礼の推進力でした。

ニーチェ

軌道修正――。1983年のビンボー旅行に戻りましょう。北はノルウェーから南はイタリアまで、西欧をほぼ縦断するルートでぼくは進みました。パリのモンパルナス墓地では (著名人が多く眠っており)、巡礼のコスパ/タイパを大幅に上げることもできました。しかし、ぼくの本命は別のところに。それが、ニーチェ晩年の避暑地だったのです。いや、正確に言うと、当初の本命地はカフカの墓だったのですが、チェコのプラハまで往復するのは経済的にも日程的にも無理、セカンドベストでニーチェの墓を目指そうとしたものの、こちらも東ドイツのライプツィヒにあってやはり無理、という妥協の産物でした。それだけに、なにがなんでも行きたい、という欲求は逆に高まっていました。

また、今日では信じられないでしょうが、当時は東西冷戦中だったことも影響しています。ベルリンの壁が崩壊するのは1989年。東側諸国の経済格差や政情不安はなんとなく伝わっており、日本人が半分だまされて東側に連れ去られた、といった風聞も、まことしやかに留学生間ネットワークで聞かれました (のちに有本恵子さんが北朝鮮に拉致されたことが判明)。直感的にヤバそう、というセンサーは働いていました。

二-チェは、ウィトゲンシュタインに比べると、作品そのものをまだ読めるほうです。「善悪の彼岸」「ツァラトストラかく語りき」「人間的な、あまりに人間的な」「この人を見よ」。これらは新潮文庫で一応は目を通したはずで、内容を理解したとは言えないまでも、その独特の文体、力強さ、挑発的アフォリズム、が年頃の若者にビンビンッ訴えてきた記憶があります。はじめてハードロックを聴いたときのような。

そのニーチェが 1883年~1888年の毎夏、避暑のために過ごしたのがスイスのシルス・マリア村 (サンモリッツの近く)。しかも、代表作「ツァラトストラかく語りき」の中心的概念である永劫回帰を懐胎したスポットもここにあり、それこそがぼくの目指した「ズルレイのビラミット」だったのです。

永劫回帰の思想というこの作品の根本概念は1881年8月受胎せられた。この思想は『人と時のかなた6000フィート』と付記して一枚の紙片に書きとめられた。私はその日シルヴァプラナ湖に沿うて森の中を歩いていた。ズルレイからほど遠からぬ巨大なピラミッドのようにそそり立つ岩のそばで、私は足をとめた。そのとき、この思想が私を襲ったのである。

この人を見よ

スイス・ベルンの友人宅を発ち、ぼくがサンモリッツに着いたのは夕方遅くでした。その晩はサンモリッツで宿をとり、翌日たっぷり一日をかけて目的地へ向かう予定でした。ただ、このとき、ちょっとした天啓が舞い降りてきます。サンモリッツのホテルは小さな、日本でいう軽井沢風ペンションの趣きだったのですが、その室内には (ベッドの脇には) 他のホテル同様「聖書」が置いてあったのですね。もうすっかり見慣れたアイテムで、普段なら気にするはずもないのに、なぜか、この日は手にとってパラパラ頁を繰ってみました。そして「ヨハネによる福音書」で手が止まりました。~初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった~。この第一章一節は、「神は死んだ」と宣言したニーチェへの返歌/回答にならないか。

ピラミッドへの埋葬品

ほとんど閃きのまま、ぼくは「ヨハネによる福音書」の冒頭を英文・日本文の両方でノートに書き留めました。その頁を破り、きれいに折り畳んで、ビニル袋に入れました。よしっ、これをピラミッドの岩根に埋めようぼくが訪れた記念として (いつの日か掘り返すタイムカプセルとして)

翌日、昼前にはバスに乗ってシルス・マリア村に着くと、ぼくは徒歩でシルヴァプラナ湖畔へ。現在のようにインターネットはなく、まして観光地でもないので、頼りになるのは文庫本の情報だけです。両側に山々を望む開けた真中に、湖はひっそりと横たわっていました。湿地帯でもないのに、ぬかるんだ地面が歩みを遅らせました。牛糞の臭いが鼻をつき、ヌルっとするたびにスニーカーの裏を確かめます。人気はまったくなく、のどかな自然だけがずっとそこにあるような、時間を超えた感覚に包まれます。ニーチェもここを歩いたのだ……。世捨人となって思索に耽るなかで……。

4travel JP より 

時間の流れが薄れるような意識。湖沿いに歩くだけなのに、だんだん増してくる心細さ。もちろん遊歩道はなく、ところどころ茂みに入って湖畔から離れる箇所もあります。添付した写真はお借りしたもので2018年当時、ぼくが訪れたときとは雲泥の差です (こんなにすっきり整備されていなかった)。狂人として生涯を終えたニーチェは、100年前にここを散策中に永劫回帰を閃いたのか……。そのピラミッドとはどんなものか……。

4travel JP より

と、突然それは現れました。木陰をすり抜け、いったん迂回した茂みからふたたび湖に出たとき、ピラミッドは厳然とそこに在りました。これがあの三角岩か? なんて自問/確認は不要。これがあの三角岩に決まっている、これ以外にズルレイのピラミッドがあるはずはない。そういった有無を言わさぬプレゼンスに満ち満ちていました。大袈裟ではなく、本当に天上から音楽が降ってくるようでした。きっとニーチェも同じ衝撃を受けたのだ、という追体験のリアル感。身体の内側から湧きあがる震え。そして、ぼくは聞いたのです。「書け、それを書け」という不思議な声を。

幻聴だったのでしょうか。きっとそうでしょう。いずれにしろ、そのときぼくは誓います。いつか必ずここに戻ってくるぞ、と (映画「フィールド・オブ・ドリームス」で「それを作れ、そうすれば彼が来る」という場面を見たときの、あっこれだ! の神秘的共感)。

4travel JP より

あんな体験は二度とありません。そして、あのとき刻まれた体験がのちにぼくの人生を大きく左右したことを考え併せると、パワースポットとしての効能は間違いなくあったのだと思います。5年後の1988年、新婚旅行を兼ねてぼくはズルレイのピラミッドを再訪します。それこそ凱旋気分でニーチェに御礼を言うため、埋めたタイムカプセルを掘り返すため、だったのですが、その詳細についてはまた別の機会に。

それでは、また。
See you soon on note (on Spotify). 

4travel JP より


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