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「器用貧乏」も、「飽きっぽい」も、本当は、ひとつの「得意」、ひとつの「好き」でしかない(「器用貧乏」連載②)

こんにちは、Light the Unightのじみーです。

「器用貧乏」と「飽きっぽい」に関する、僕なりの考えをお伝えする連載、第二回です。前回は、僕が「器用貧乏」と「飽きっぽい」という言葉に苦しんでいたこと、ある友達との会話で、「僕は、実は、ずっとひとつのことに夢中だったのかもしれない」と考えるようになったことを書きました。

今日は、「器用貧乏」も、「飽きっぽい」も、本当は、ひとつの「得意」、ひとつの「好き」でしかない、ということについて、もう少し詳しくお伝えしようと思います。

「器用貧乏」も、「飽きっぽい」も、本当は、ひとつの「得意」、ひとつの「好き」でしかない。

もし、この記事を読んでいるあなたが、自分が「器用貧乏」で「飽きっぽい」ということに嫌気が差しているとしたら、ひとつ、考えてみて欲しいことがあります。

あなたが自分を「器用貧乏」だと言うとき、思い浮かべるのは、どのような器用さでしょうか。「飽きっぽい」と言うとき頭に浮かんでいる、飽きられたものたちは、どのようなものでしょうか。

きっと、そのものたちはてんでばらばらで、分野も違えば、使える場面も違うのでしょう。そして、あなたは、きっと、そのどれについても、初心者というほど下手ではないし、かといって、得意と言えるほど上手くもないのでしょう。それこそが「器用貧乏」で「飽きっぽい」人が、「器用貧乏」で「飽きっぽい」人である所以ですから。

では、今度は、誰か、あなたの周りで、何かひとつのことに夢中になっていて、かっこいい人を思い浮かべてください。

その人は、きっと、スポーツなのか、学問なのか、娯楽なのか、分野はともかく、それがとても好きで、そのことには何時間だってかけられて、いくらでも集中できて、打ち込んでいる姿はとても素敵なのでしょう。

あなたと、その人は、一体何が違うのでしょうか。

その人には、何かひとつのことを好きになる、頑張れる、能力が備わっているのでしょうか。それとも、あなたには、何かに夢中になる心や、努力をする才能が欠けているのでしょうか。

その通りです、と言うのは簡単です。多くの人たちが、言葉には出さなくても、そんな風に考えているのではないかという気もします。

少なくとも、数年前までの僕は、そう思っていました。

でも、それは、違う。

違う。

そう言う人は、すごく一面的なものの捉え方をしているだけのことなのです。

ちょっと例を変えてみましょう。

ここに、カフェに行くと、必ずチーズケーキを食べるA君がいるとしましょう。あなたは、彼を「チーズケーキ好きだな」と思うことでしょう。

では、カフェに行くと、その時の気分で苺タルトを頼んだり、チョコレートムースを食べたり、メロンソーダを飲んだりするB君はどうでしょうか。彼は苺タルト好き、と言うわけではないでしょう。チョコレートムース好きでも、メロンソーダ好きでもないかもしれない。でも、あなたは、「彼は甘いものが好きなのかしら」と考えるのではないでしょうか。

さらに、カフェではコーヒーを頼んだり、りんごパイを食べたり、サンドイッチを齧ったり、パスタを食べたりするC君がいたらどうでしょう。完全にバラバラなのでしょうか。いえ、もしかしたら、彼は「新しいものを試すのが好き」なのかもしれない。もしかしたら、「目に入った最初のものを頼んで、ランダム性を楽しむのが好き」なのかもしれない。はたまた、仕事の時はコーヒー、おやつ時には甘いもの、人と話すときは手軽なサンドイッチと、「自分なりのルールに従うのが好き」なのかもしれません。

あと、たぶん、A君もB君もC君も、じみーも、カフェが好きですね笑

……わかりにくいですかね?

要するに、「好き」、にしても、「得意」にしても、具体的な、個々のものごとだけを見なくていい、ということです。

飽きるということは、一回はハマったということでしょう。器用貧乏ということは、いろいろなものごとを、一定程度上手くできるということでしょう。

あなたが飽きたものたち、あなたが一回ハマったものたちは、コーヒーとりんごパイとサンドイッチとパスタなんです。一見ばらばらで、一貫性も関係性もないようでも、それらにハマった理由には、きっと共通点がある。見た目が綺麗なのが良かったのかもしれない。いろいろ工夫できるのが楽しかったのかもしれない。誰かを喜ばせたかったのかもしれない。

その共通点が、あなたの「好き」です。

あなたの器用貧乏の対象も同じです。あなたがいろいろなことを、一定程度上手くできるのには、何か共通する理由があるはずです。練習方法を考えるのが上手いのかもしれない。自分の身体に意識を向けるのが上手いのかもしれない。もしくは、ものごとの本質や重要な箇所を見極めるのが上手いのかもしれない。

それが、あなたの、「得意」です。

はっきり言いましょう。

あなたには、あなたの「好き」と「得意」がちゃんとあるんです。

ただ、その「好き」と「得意」が、ひとつの具体的な物事に繋がっていなくて、形をはっきり捉えるのが難しいものなだけなのです。だから、その「好き」がかすめるさまざまなものに一時期ハマったし、その「得意」が引っかかるいろいろなことを、一定程度上手くできたのです。

言い換えると、外から見ていると、あなたは、「飽きっぽい」「器用貧乏」な人かもしれない。でも、実は、ずっとひとつのことが「好き」で、ひとつのことが「得意」で、その「好き」と「得意」を大切に、大切に、育ててきていたのです。

これが、「器用貧乏」と「飽きっぽい」の正体だと、僕は思っています。

ちょっと待って、とあなたは言うかもしれない。

「器用貧乏」と「飽きっぽい」は、実はひとつの「得意」と「好き」だったとしても、結局、何かを極められないなら、何も変わらないでしょうと。言葉遊びをしていても、今、現実に苦しんでいるこの状況は何も変わらないでしょうと。

僕もそう思います。

でも、どうせ極めるなら、自分が本当に「好き」で「得意」なことを極めればいいじゃない。

次回は、このことを、もう少し掘り下げてみようとおもいます。

じみー

次の記事はこちら。「器用貧乏」と「飽きっぽい」に関する一考察③

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