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危機感を感じた

昨日、同じ学科の友人たちとご飯を食べ、そのあと温泉に行き、最後に友人の家でホラー映画を観て過ごした。

当たり前だけど、こういう時になると、お互いに近況を話し合うことになることが多い。学部3年までと違って学部4年以降は研究室に配属され、頻繁に会うことも少なくなるから。

雑談をしながらご飯を食べたり、温泉に浸かっているのは楽しいけど、一緒に話していて自分に危機感を持つこともあった。

それは、自分はこんなにのんびりしてていいのかなっていう危機感。僕は今、研究と就活をやっているけど、周りと比べて必死さがないように感じた。

周りと比べるのは、あんまりやらないほうがいいと思うけど、やっぱり「このままの感じで、大丈夫かな」と思うことはあった。

「こういう仕事をしたい」とか、そういう強い思いがまだなくて、業界研究とかもあまりできてない。最低限のお金があって、仲の良い人と過ごせればそれでオッケーぐらいの、ふわふわした感じで就活に臨んでいる自分がいる。

研究もそうだ。「こういう研究をどんどん進めていきたい」というより、先生に言われたことをとりあえずやっておこう、ぐらいの熱量でいる。専門分野を楽しそうに話せる友人との熱量の差を感じる。


手を抜くとは言わないけどゆるーく生きていきたいと思う自分と、周りで頑張っている友人たちと比較して焦る自分。

上へ上へと競争心を持って頑張っていた時期もある。それは、高校生の頃。ワンダーフォーゲル部という、山岳部みたいな部活に所属していたときだ。

ワンダーフォーゲル部の大会では、読図や天気図などの知識系の得点と、荷物を背負って山を登るタイムで競う体力系の得点の合計点で、順位が決められる。荷物を背負って山を登ることを、「歩荷ぼっか」といい、僕はこの「歩荷」で誰よりも早いタイムを出そうと当時、必死に頑張っていた。

体力には自信があり、練習を必死に頑張れば同じ高校の部活内で一位になれることもあったので、当時は一生懸命に打ち込んでいた記憶がある。

誰にも負けないように上へ上へと努力するのは成果も出やすいけど、息苦しさもあった。今は自分は上位にいるけど、気を抜けばすぐに抜かれてしまうのではないかという不安が常に付きまとっていた。

だから、ワンダーフォーゲル部での記憶はみんなと楽しく山に登ったというよりも、少しでも早いタイムをだそうと練習していた思い出がほとんどだ。競技の取り組み方としては良いかもしれないけど、そんなに勝ち負けにこだわりすぎず楽しく山に登ろうと努力すればよかったなって、今振り返って思う。


そんな高校生のときの経験があって、僕は今はそんなに競争心を持とうとしてないのかもしれない。本当は、ただ努力することから逃げようとしているのかもしれない。だけど、今の競争をしない生き方のほうが、僕は充足感を感じる。

勝ち負けに意識を持ちすぎなければ、自分のやりたいことに割ける時間も増えた。今もこうして、文章を書くという昔からずっとやりたかったことに十分時間を投入できている。

競争から降りるのは負け犬のように見られるかもしれないけれど、満ち足りた生活を送る上で勝ち負けはそこまで重要じゃないと思う。実際に僕がワンダーフォーゲル部で勝ち負けにこだわりすぎていたことを今振り返って、そう感じる。

そして、「呪詛」という台湾のホラー映画が怖すぎて、感じていた危機感もきれいさっぱりなくなってしまった。

でも、危機感は必要以上に持たなくていいかもだけど、過去の自分よりは成長できるように頑張ろうと思う。



おわり






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