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公衆電話

5・発狂

 そこは地元で昔から霊能力が高いと評判で、失し物とか心配事の相談に町の人が駆けつけるような人の開いた施設があって、お稲荷さんが祀られていた。
 待ってる時そこで秘密の神事が行われているように感じ高見から時々覗いていたが、関心は待ち人よりそっちへと移行していった。

 そのあたりから、意識に靄がかかったようになり・・僕の記憶も曖昧模糊なものになっていった。
 一時に複数の情報が氾濫していたように思う。と、同時に行動がコントロールできなくなり施設の建物に不法侵入して警察に通報されて尋問を受けたようだったが、不審者として注意されただけだったように思う。

 どうやって自宅へ戻ったものか、自分で運転して帰るしかなかったはずなのだが記憶がない・・・無事には帰っていたのだが。

 家に帰ってからは、全裸になって天井裏を這い回ったり、浴槽に入って頭まで沈み妻を振り回すような事をしたのだったが、自分としてはどれも固い決意をもっての行動だった。
 体は傷だらけとなり疲労困憊もしたのだが、それ以上に頭の中に沢山の認知・情報が渦巻いて、それがまるで生き物のように入れ子細工状態で出入りして収拾がつかなくなっていた。

 家の周りをぐるりと群衆が取り囲み「蛍の光」を大合唱している光景は映画のクライマックスを見ているような感動に包まれた。パトカーまで停まっていて警官すらその輪の中にいたのだから‥
 同時に記憶している風景には核爆発後の人気ない隣近所の夜だったりもしたのだが。。。

 「みんなの家を造る」
それが天井を這いまわった理由だったのだが、自分に課せられた使命だと思われ、泥海の中からこの世・人間を作り出した古記(こうき)になぞらえた行動だった。
 浴槽では毒ガスなどを浄化するための必死の挑戦でもあったように思う。

 統合失調症というのは情報の病ということが出来るかもしれない。 

 極論ではあるが、宗教や芸術と最先端の科学といった分野もかなりそれによって生み出されてきたようにも思う。
 ゴッホの狂気があの絵を描かせ、彼の耳を切断したように・・・
 アインシュタインは、少年の頃に見た夢や印刷局の仕事の途中に降って湧いたようなビジョンやアイデアを基に何十年という歳月をかけて、余人のまねできぬ忍耐力や友人との交流・苦手な数学とか好きだった音楽の力を借りて相対性理論を構築したと聞く。
 
 僕の発症時の異常な体験は宗教的情熱の結果であったと言えるのかもしれないが、その後の人生を決定づける不思議な人々との出会いの連続や出来事の連鎖を重ねて今に至っている。
 
 

 小説の流れとは筋を離れるのだが、最近僕のところに訪ねてくれた画家の女性を案内しながら「熊野のクマを救けて!」のメッセージについて話して、今も疑問に思ってると言ったところ、
「もしかするとそれは古代に熊野にいた ニシキトベ という巫女で酋長だった人物の事じゃないかしら?」
との示唆を受けた。


 

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