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私は『私の登場する小説』を書いてあそぶ

最近、私は或る“あそび”を始めた。

それは私が確か七歳くらいに始めた“あそび”とほとんど違わない。

七歳頃の私は当時夢中になっていたアニメの大好きなキャラクターと一緒に世界を冒険する漫画を描いていた。
大好きな、というより恋していた、という表現が正しい。
『夢漫画』とでも呼んでおこうか。
私の夢漫画は告白や交際やキスなどの描写は一切なかった(そういう直接的な描写を描くのが恥ずかしかった年頃でもある)が漫画の中の私とそのキャラクターは友情や好きを超えたとても強いもので結ばれていることが前提だった。
どんなピンチも共に乗り越え、嬉しいことがあれば共に喜んだ。

十歳になると途端に恥ずかしくなって夢漫画を描くのをやめて、夢漫画の描かれたノートも捨ててしまった。
今思えばそのノートを大切にとっておけばよかったと思うばかりだ。だってその時の私の感性や情操、好きなもの好きなことがめいっぱい込められた貴重な資料なのだから。


最近、私は“あそび”として小説を書いている。
もちろんこの小説も或るゲームの私の大好きなキャラクターをモチーフにした男と私が織りなすストーリー、いわゆる夢小説である。
七歳頃に描いた夢漫画と決定的に違うのはキャラクターと私が恋をする点だろう。
そしてこの夢小説を書き終えたら印刷所に頼んで本という形に残しておこうと決めている。
未来の私にその本を読んで過去の私が抱いていた憧れや手に入らなかったもの、本当に欲しかったものを思い出してほしいからだ。

小説を書いていて、よく思う。
この小説の中の世界、そして小説の中の私もすべて私の人生なのではないか。
一人になったとき、小説の書きたいシーンを思い浮かべる。
それもほとんど無意識に映像や音が頭の中に広がり、小説の中の世界にトリップできる。
その世界はあまりにも現実と違わないほど色をもっている。

「小説の世界もまた、もう一つの現実なのだ――」

そんな風に、私は感じている。
頭の中で常に流れている音楽と、思考と、映像。
これは良くも悪くも私の生まれつきの才能だ。
この才能に苦しめられたことは何回もある。
夜に頭の中で音楽が鳴りやまなくて眠りに集中できない、とか。
しかし、この才能を十分に、無駄なほどに、使う時が来た。

小説を公開するつもりはないが、小説のオチをちょっとだけ話そうと思う。
小説の中の私は、小説の世界の人間ではない。
今ここに居る現実の世界の人間だ。
現実の世界の私が小説の世界に意図的に入り込み、小説の中に出てくる“或るゲームの私の大好きなキャラクターをモチーフにした男(以後、男と表記)”を散々夢中にさせた後、「私はこの世界の人間ではない」とカミングアウトする。

「私はまた、あなたと一番初めから出会うことができる。そしてまた、愛することができる。いつでも、何度でも」

つまり小説の一番初めのページを開けば、また最初から物語が始まり、何度もその男と会える。この小説で一番書きたかったことだ。
現実の私が死ぬまで、何度もその世界へ行けるのだ。

私にとって『小説を書く』とは『今、私たちがいるこの世界の下の次元に世界を創ること』。

そう考えたら、やはり神様はいるのだろうと思う。
私たちより上の次元に、いつでも、何度でもこの世界を最初から終わりまで見ることができる存在が、きっと、いる。

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