ひめゆりの塔を訪れて
ひめゆりの塔のことをみなさんご存知ですか?
私は名前くらいでどんな施設なのか恥ずかしながら知りませんでした。
けれど、沖縄観光の間に戦争について学ぼうと思った時にすぐに頭に浮かんだのがひめゆりの塔でした。
私は中高一貫の女子校の出身です。
沖縄師範学校女子部の学校の校舎があった場所。
こちらの校舎では13歳から19歳の生徒、約1150人が学んでいた場所を見ながら、自分の高校生活に重ねて想像していました。
勉強やスポーツにうちこみ、友達との楽しい時間を過ごした学校が突然戦争に巻き込まれる。
突然お国のためにと病院での看護を手伝うことになる。
そして突然、戦争の真っ只中に解散命令が出て、どこに逃げればいいかわからず途方にくれただろう女学生さんになったような気分でここに立ちました。
私がその時代に産まれていたら、ここにいたら、、、顔がやけてシラミまみれの病人の方を看病してあげられただろうか?
解散命令が出た際に、逃げ出すことを自分で決められただろうか?
その時多くの患者さんを残して立ちされただろうか?
もちろん、何も考えず生きていた私の学生時代とは違って、1945年当時こちらの学校に通っていた学生さんたちは戦争を身近に感じていたでしょう。
でも、きっと私と同じようにただ友達と過ごす学生生活を楽しんでいた子たちも沢山いたはず。
この学舎で学んだ方々の写真を見ながら、彼女たちの苦悩を想像せずにはいられませんでした。
ガマの入口は子どもたちが怯えるほど深く暗い場所でした。
ひめゆり学徒を含む陸軍病院の看護婦や兵隊、住民などおよそ100名がここに隠れていました。米軍の攻撃を受け、80名あまりが亡くなったとのことです。
80年前はここを病院としていたんだ。
そして病院として利用した場所も安全ではなく、攻撃を受ける場所になっていたんだ。
改めて、今の時代にガザ地区で行われている戦争を思い、平和が訪れるよう祈りました。
ちなみに8歳,6歳の我が子たちには
「〇〇ちゃん(中学生の従兄弟)と同じくらいの子が、この戦争のときは病院の手伝いをしてたんだよ。」
「戦争の最後は、解散って命令されたその時から自分でどこに行けばいいのか考えて一人ひとり行動したんだよ。」
などと話しながら歩きました。
若い女の子の写真を見ながらだと、沖縄祈念資料館の暗い雰囲気よりはずっと過ごしやすいようでした。
そしてひめゆりの塔を出てすぐにブルーシールアイスクリームがあったので、行き道に発見していた二人は、
「帰りはアイスを食べて帰ろうね!」
と何度も確認しながら回ってくれました(笑)
全部お付き合いさせて悪かったかなぁと思いながらも、
帰ってから旅の思い出記録をつけている次女が
『ひめゆりの塔にいったよ』
と書いているのを見て。
どこか記憶の片隅に、ここに来た思い出も残っているといいなと思います。
そして、いつか。
もっとゆっくり、いろんなことを想像しながらひめゆりの塔を訪問してみたいと思います。
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