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失敗の活用

捨てるつもりで

自分の人生において重要な事は、まず時間と金である。
それでそれを単純に直接的に手に入れられるかと言うと、そういう訳には行かない。

自分は、それは間接的に手に入れるしかないのではないかと思うのだ。
それは直線的にそれを手に入れるのではなく、迂回するしかない。

ある意味、その過程において失敗は寧ろしておいた方がいいだろう。
その失敗は早ければ早いほど、或いは多ければ多いほどいいのではないだろうかと、少なくとも自分は思っている。

歳をとってからも失敗はするが、例えばnoteを書く事においては自分はまだ半年前に始めたばかりだ。

それでnoteにおいてこれからどうして行くのかという時に、これはつまりどれだけ失敗したかという事が重要になってくると思うのだ。

ある意味、最初は捨てるつもりでいまいちな文章を積み重ねる必要があるのではないのだろうか。

若い時の苦労は買ってでも

大体、読者の反応で失敗しているかどうかは分かる。
単純にスキが伸びないとか、ビューが伸びないとか。

自分の考えだと、そこで失敗する事は必然だ。
だからその失敗を糧に将来的な成功を目指すしかない。

若い時の苦労は買ってでもせよ、というのは単純にそういう事なのだろう。
時々苦労なんかしない方が良いという人がいるが、自分はその考え方は間違っていると結論した。

結局苦労をしなければ、将来的には伸びないという事だ。
苦労しない人生が良いという人は、まだその先の苦労が分かっていないだけだ。

何が失敗で何が成功かという判断すらできていない人もいるように見受けられる。
何が成功で何が失敗かすら分からないから、その人の人生は崩壊して行ったのだと自分は思うが。

今日もまた

そういう人に何の参考にもならない人生を教授されても、一瞬言葉を失うだけだ。
単純に頭の中ででき上がった良いイメージだけを追いかける事は止めた方がいい。

その人の人生が中々浮上してこないのは、そういう原因があるのではないのだろうか。
そういう人の人生は、所詮は嘘で塗り固めた人生だ。
それは、崩壊するべくして崩壊したのだ。

翻って、自分はどうなのだろうか。
嘘は吐いていないか、苦労から逃げていないか、失敗から目を背けていないか。

いや、実際どうなんだろう。
少なくとも自分の場合、自分に厳し過ぎる人だと思われているみたいだけど。

そういう訳で、この文章も自分の歴史の中の一つの失敗として自らの脳に刻み込まれて行くのだろう。
時間的にも、金銭的にも。


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