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コミュニケーションの手段としての文学

コミュニケーションが下手だから、それを補う為に書いていた

何となく、自分が文章を書く時のテーマは大雑把に、他人とコミュニケーションをとる事である気がしてきた。

自分は、他人とコミュニケーションを取る事が大概下手なのかもしれない。単純に、喋ってコミュニケーションが取れるのならばそれで問題は解決していた。

しかし、実際の話それで上手くコミュニケーションを取れていないから、文章を書く事によって補おうとしてきたのではないのだろうか。

或いは問題は、絵が描けないとか、楽器を弾けないとか、そういう事であるのかもしれない。それでも日本人であれば、文章は書けるだろう。だから、文章を書いてきたのではないだろうか。

単純に、できる事をやって生きて行くしかない。自殺したりとかする人は、そもそもできない事をやろうとしているのではないのだろうか。

自分は、常に他人に伝える事を意識して文章を書いてきた

思っている事を書く事は自分には重要で、何かそれが明後日の方向に向かっているのだとしても、結局書き続けている。

それで、何の為に書いてきたのかと言えば、結局コミュニケーションそれ自体を問題にして、どうしたら思っている事が伝わるのかとかそういう事を書いてきた。

とりあえず自分が公表した文章を読み返した訳ではないから細かいところまでは分からないけど、常に書いている時にどうしたら伝わるかという事を考えてきた。

自分がこう思うという事を書くだけでは、思っている事は伝わらないだろう。重要な事は他人にそれが伝わるという事であって、ただ書く事ではない。

ある意味、仕事も、学問も、家事も、他人とコミュニケーションを取る為にやってきた。

少なくとも自分は、金よりも言葉を優先しているようだ

一時期自分はそれらを金のためにやっていたのではないかと思っていた。ただ、それは間違いだろう。自分は、こうして書いている文章が金にならなくても文章を書く事を止める気がない。

そう考えると、結局それは常に他人を想定していたようである。結局、金もまたその他人とのコミュニケーションの手段の一つでしかない。

コミュニケーションを取る為に、金を使う時もあれば使わない時もある。だから、金が全てではない、という事になる。

そう考えると、大事な事は寧ろ言葉とかコミュニケーションそれ自体であるのではないだろうか。

コミュニケーションを取る為にどうすればいいのかと、まず自分が考えた結果が、こうして文章を書く事だったのだ。と、今では思っている。


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