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Guideline 《短編小説》


 フェイクレザーが擦り切れた一人用ソファに身体を預け、俺は深くため息をついた。仕事で凝り固まった身体が緩み、温かい血液がやっと動き始める。見慣れた白い天井はこの三十年ですっかり薄汚れており、まるで新卒だった頃の俺と今の俺を表しているかのようだった。十数年前に同僚が“女性は丸いテーブルが好きらしいぜ”と言った根拠のない言葉を信じて買った、ベージュの丸テーブルは、もうずっと俺の晩酌用となっている。
「……」
 丸テーブルの上に置かれた二本目のビールに手を伸ばし喉に流し込むと、ほろ苦さと炭酸の弾ける感触が気持ちいい。つまみにコンビニで買った焼き鳥を頬張り、何ともなしにスマホの画面を見つめた。通知の数に目を止めLINEを開いてみると、すべて広告会社からの通知で、俺は指をスライドさせ既読だけをつけていった。友人や家族とはもう長い間連絡をとっていない。一年に一度実家には帰るのが恒例なものの、近年は子供の生まれた弟夫婦の賑やかさに引け目を覚え、何かと理由をつけて実家帰りを拒否している。特に理由もなく、画面を上にスライドし過去のトーク履歴を眺めていると、だいぶ下の方に何十人もの知人の中に埋もれた“橋塚正義はしづかまさき”と言う名前が目に止まった。かつて丸テーブルを勧めてきたあの同僚だ。正義と書いてまさきと読む彼は、名前の通り正義感に溢れた男で、何かというと聖書を引き合いに出す奴だった。後輩が両親の文句を言うと“モーセの十戒ってのを知ってるか? 親は敬うもんなんだよ”と言い、友人が彼女と喧嘩して落ち込んでいると“まあ……人間なんてみんな生まれながらにして罪深い生きもんだからな。仕方ねぇよ。さっさと謝って仲直りすりゃいいじゃねぇか”と言った。言葉遣いは荒かったが暴言を吐くことはなく、なんとなく頼り甲斐があり誰からも慕われていた。だから、彼が交通事故で亡くなった時は誰もが悲しみ、暫くは会社が太陽を失ったかのようにどんよりとした空気を纏っていた。
 “モーセの十戒……”
 “ん?”
 “あいつが生きてたら、またそう言うのかな。人を殺してはならないって書いてあるだろって”
 “……さあ、言うんじゃないか”
 俺はスマホの電源を切り、丸テーブルの上にうつ伏せにして置いた。橋塚が死んだのはもう十年も前だ。だが彼の明るい笑顔と口癖は、ふとした時に思い出の中に顔を出す。
 ビールを呷ると、空の缶に残った僅かな滴が唇に落ちた。麦の味がする唇を舐め、空の缶を手に持ったまま俺は台所の奥に佇む冷蔵庫に目を移す。立ち上がって吸い込まれるように冷蔵庫に近寄り、そばにあったゴミ箱に缶を放った。冷蔵庫を開け、新しいビールの缶を取り出すと、手に掛かる重みに安心感を覚える。ソファに戻り、プシュ、と缶の口を開けて再び喉にビールを流し込んだ。炭酸の音が、疲れや悩みを一時的に麻痺させてくれる。
 もう一度天井を見つめた。天井はさっきと少しも変わらず薄汚れていた。

 等間隔に並べられたチャーチベンチの角を手でなぞりながら、私は目の前に立っている十字架を見上げていた。見慣れたその十字架は、子供の頃とても大きく見えたものだったが、今となっては私の背とそう変わらない。もともと小さな教会だからか、一度他県の教会に立ち寄った時はその煌びやかさと聳え立つ十字架の大きさに驚いたものだ。もう十四時も間近なせいか、他の信者は見当たらない。時折屋根に飛び移る鳥の羽音が聞こえた。
「橋塚さん、まだ帰られていなかったんですか」
 不意に背後から声がして振り返ると、松田先生が穏やかな笑みを湛えて立っている。物心ついた頃から知っている牧師さんで、そろそろ七十歳になるはずだが昔と変わらない落ち着いた声と微笑みを絶やさない口元が私を安心させてくれる。
「松田先生」
 いつも日曜礼拝の後はそそくさと帰る私だが、お昼も食べずに待っていたのには理由があった。
「私、就職決まったんです」
「そうなんですか。それはおめでとうございます」
「それで一つの区切りかなと思って、いくつか聖書のことで先生に聞きたいことがあって」
「はい、なんでしょう」
 なんでも答えますよ、と松田先生は言う。
「旧約聖書、創世記の二章九節以降に登場する知恵の樹ですが、アダムとイヴが主の教えに背きその実を食べてしまったきっかけに蛇がありましたよね。あれ、三章の最後に主に“お前は一生腹這いで歩き、ちりを食べなければならない”と書いてありましたが、それまでの蛇はどんな姿だったんでしょうか? トカゲみたいに足が生えてたんですか?」
 子供の頃から疑問に思っていたことだ。同じくプロテスタントの父に聞いたこともあったが、知らないと一蹴にされ、いつか牧師さんに聞こうと思っていた。松田先生は少しの間、何も言わずに私を見つめていたが、不意に再び微笑んで口を開いた。
「そんなこと、気にしなくていいですよ」
「でも」
「主が仰られたことを、あなたはただ受け止めればいいのです。そのようなことを追求しなくとも、主はいつも私たちを見ておられます」
 そう言われた瞬間、私の心の奥で何かがストン、と落ちた音がした。他にもいくつか同じような問いを用意していたが、同じ答えしか返ってくる気がしなく私はそれを胸の内に押し隠す。
「そうですか……ですね。はい」
 私は納得したと示すように何度か頭を上下に振っあ。そっか、そんなこと……そっか。
「あ、じゃあ私は帰ります。ありがとうございました」
「いいえ。またなんでも質問してくださいね」
 はい、と笑顔を作り頷く。なんとなく納得がいかなくてもやっとしたが、夏の熱気のせいにすることにした。教会から一歩外に出ると、日の光が眩しくて目を閉じる。メールを確認しようとスマホを取り出して、今日の日付が目に入った。六月二十七日。後数日で父の十回目の命日が来る。

「多田さん、いい加減にしてくださいよ」
 ダイニングチェアの背にもたれかかり、映画や漫画で見るように人差し指で机をトントンと叩きながら部長は俺を白眼視した。わざと大きくついたため息を聞きながら、俺は無言で頭を下げる。橋塚がいた頃から二度部長が交代し、今の部長は感情を隠さない性格の男だった。こちらの方が年上にも関わらず遠慮なしに嫌味をぶつけてくるこの部長が、俺は苦手だ。
「次長ならそのくらいやってくださらないと。いえ、そんなだからその歳になっても次長止まりなんでしょうか」
「……申し訳ありません」
 指示されたことをやっていなかったわけではない。ただ、指示されたこと以外のことには頭が回らなかったのだ。いわゆる空気を読むと言うことが俺は苦手、いや下手で、度々こういうことが起こる。指示されれば確実に成果を出せるが、指示されないと気づけない。この歳になって、これはある意味致命傷かもしれないと気づき始めた。
 はあ、と部長はもう一度深いため息をつく。
「そこで頭を下げられてても何も変わりませんし、もう行ってください。もしかしたらお疲れなのかもしれませんし、休暇取ってもいいんですよ?」
 もちろん、優しさからの言葉ではない。もう会社に来なくてもいいんだぞと言っているのだ。
「いえ、大丈夫です。……失礼します」
 ドアノブを捻り廊下に出ると、室内から溢れた冷房がひんやりと冷たい。ためていた息を一気に吐いた。何やってるんだろう、俺は。

「お母さん、もー早く! 記念集会遅れたらどうするの」
 慣れないヒールでパタパタ歩く母を後ろ目に、緑樹に囲まれた教会へと向かう。プロテスタントの場合、故人が亡くなってから一年後、三年後、五年後、七年後、十年後に故人が所属していた教会で記念集会を行うのが一般的だ。今回で五回目だと言うのに、相変わらず母はそそっかしい。
 私が小学校六年生に上がってすぐ亡くなった父は、私の記憶の中では明るくて優しい人だった。すぐふざけるし、言葉遣いはいまいちだし、なんだか子供みたいな大人だった。父の死後、松田先生に“お父様は神の祝福を受けられたのです。安らかにお眠りになられますように”と言われたのを覚えている。例えそれが交通事故だとしても、それは神の祝福なんだろうか? 神の祝福とは、そんなにも痛くて辛いものなんだろうか。
 集会が始まると、式の次第に従い賛美歌を歌って松田先生の説教を聞いた。それから長い祈りを捧げ、茶話会へと移る。教会の奥の小部屋に通され、私と母と松田先生でお茶菓子の置かれたテーブルを囲んで椅子に座った。
「もう、正義さんが亡くなって十年が経つんですね」
 松田先生が口を開く。
「成人してから洗礼を受け、キリスト教徒になったにも関わらず信仰深い方でした」
 母がちらり、と私の方を見る。小さく頷くと茶菓子の入ったお皿に手を伸ばし、クッキーを一つ手に取った。キリスト教徒ではないためか元からの性格からか、母はいつも松田先生の話をさほど聞いていない。
「父は教会が好きだと言っていました。心の中の汚い部分が洗い流される気がすると言って……私は父は十分心の綺麗な人だと思っていましたが」
「正義さんはよく教会に来ていましたね。仕事帰りや……土曜日なども顔を出してくださいました」
 記憶の糸を辿るように目を細める松田先生を見つめながら、私はぼんやりと他のことを考えていた。キリスト教徒の考え方で言えば、父は安らかな眠りにつき救われたはずだ。“信じるものは救われる”父はとても信仰深かったから。けれど、では信じなかったものは? かの有名なノアの方舟のように、いつかは排除されてしまうのだろうか。主にとっての人間とは、いったいなんなのだろう。
 それからもお菓子を食べ続ける母を横目に私と松田先生は父の思い出話を語り、頃合いを見て解散となった。車の助手席に座りシートベルトを締めながら、車に鍵を刺してエンジンをかける母の横顔を見つめる。
「お母さんは……どうしてキリスト教徒にならなったの? お父さんが洗礼を受けた時にお母さんも受けようとは思わなかったの?」
 横顔は、私そっくりだ。いや、私が母に似たのか。鼻から顎のライン、やや三日月形の目元や薄い唇、夏は油分が多くなる肌の質までも私は母に似ている。父の要素はどこかに落としてきてしまったのだろうか。
「んー? なあに、突然」
「だって、周りのキリスト教徒の人たちみんな家族ぐるみじゃん?」
 私と父の共通点といえば、同じキリスト教徒だってことくらいだ。それも、主の仰せになったすべての言葉を消化し飲み込んだ父とは違い、私は少しずつ疑問を抱き始めている。
「確かにねぇ〜キリスト教徒のみなみにこんなこと言うのはあれだけど、お母さんキリスト教の考え方よくわかんないのよ」
「わかんないって?」
 母はアクセルを踏むことはせず、そのままうーんと首を傾げた。
「イエス様ってすっごく優しいイメージだけど、暴言吐かれた時とかに“主よ、どうかこのものをお許しください”とか言うじゃん? 相手の人別に許し求めてないのに」
「あー、うん」
「それ、なんか感じ悪いなって。ごめん、お母さん無信仰だからさ」
 感じ悪い。確かに、イエス様じゃない人に言われたらどうなんだろう? ……めちゃくちゃ感じ悪いかもしれない。
「なるほど……ううん、私全然考えたことなかったわ」
 なるほど、ともう一度呟いた。母がアクセルを踏み込む。ハンドルを切り道路に出ると、湿った生温かい初夏の風が髪にまとわりついて気持ち悪かった。

 いつものようにスーパーで一番安いビールとつまみを買い帰宅すると、ポストに一通の葉書が入っていた。取り出してみると、消印は一週間前だ。広告のチラシなどに紛れて忘れてしまったのだろうか。多田信ただのぶ様と書かれたその葉書を裏返すと、それは橋塚の追悼行事のお知らせだった。五年目までは参加していたが、前回は都合が合わなくて不参加だった。今日は三十日。もう十時を回っているし、とっくに終わっているだろう。
 家に入り革靴を脱ぐと、蒸れた靴下から疲弊した男の匂いが漂った。脱いでそのまま洗濯機に放り込み、その足でビールを冷蔵庫にしまう。スーツをパジャマに着替え、ソファに凭れた。
 “タダノブ! おい、聞いてんのかよ”
 “あーもう、なんでお前はそんなに元気なんだよ。金曜だぜ?”
 “そう言うお前は元気ねえな。俺は毎日教会行ってるからさ!”
 “なんだそれ、教会には魔法使いでもいるのかよ”
 “魔法使いはいねえけど、主がおられるからな。疲れなんて吹っ飛ぶぜ!”
 “そりゃよかったな。とりあえず耳元で叫ばないでくれ”
 無意識に深くため息をつき、ベージュの丸テーブルを見るともなしに見つめる。のっぺりと平坦なその色は、俺の視線を拒絶しているように見えた。
 こんなに人生は難しいものだっただろうか。仕事をしても成果は出なく、むしろ叱咤される日々が続き、俺は毎日出勤する意味を失い始めていた。金がもらえる? 否。買いたいものなどないし、この三十年で貯金はだいぶ貯まっている。だからと言って仕事を辞めようなどと考えたことはなく、前にも進めず後ろにも退けない中途半端な状態だ。
「……いい加減にしてくれ」
 もうわからないんだ。ずっと見えていたはずの道が、いつの間にか霧に包まれて見失ってしまったんだ。後戻りをしようと背後を振り返ると、さっき来た道は目の前で崩れていく。逃げ場のない一方通行で、俺は無様に逃げ道を探していた。
「終わりに、したいな」
 そう呟いてみる。
「もう……疲れたよ」
 声が壁に吸収されて消えていった。立ち上がり、先程冷蔵庫にしまったばかりのビールを取り出し、たったまま缶の口を開ける。そのままビールを呷ると、水分が枯渇していた喉に炭酸が染みた。冷蔵庫からもう一缶取り出し、ソファに戻った。スーパーで買った茹でた枝豆のパックを取り出し、皮から出して口に入れるとほんのり甘い豆の味が広がる。
 甘えだ。みんな道を見失っても必死で探し当てて進んでるじゃないか。終わりにして逃げようだなんて、俺はいつからこんなに弱くなったんだろう。
 一缶目のビールは空になり、すぐに二缶目を開ける。枝豆をちびちびとつまみながら、頭の中はぐるぐるとしょうもないことばかり考えていた。
 俺はここにいる必要があるのだろうか? 存在意義などないんじゃないだろうか。そうだろう。俺一人いなくなったところで誰も困らないし、悲しまない。あーあ、どうせなら十年前に死んだのが橋塚じゃやくて俺だったら……あいつは今も家族と楽しく暮らして、俺はこんな苦しさを感じなくて済んだのに。神様は不公平だ。
 あっという間に二缶目も空になり、再び立ち上がって冷蔵庫から追加で二本取り出す。三缶目を空にすると、少し酔いが回ってきたのを感じた。それでも何かを探るように俺は飲まずにはいられなくて、四缶目、五缶目を空ける。
 腹が膨れてぼんやりと天井を見つめていると、唐突に睡魔が襲ってきた。瞼が重くなり視界がぼやけてくると、不意に目の前にぼんやりと橋塚が見えた。もちろん本当にいるわけではない、先程橋塚のことを考えていたからだろう。俺は離れていく意識を必死で掴まえながら、何か言おうと口を開く。離れていく意識に引き摺られ、頭が回らなくなり、新たに言葉を紡ぎだそうという意識は働かず、代わりに俺の胸の奥から古い思いが抜き出て、瞼が落ちる寸前に外に出ていった。酔った時、人は本性をあらわにすると言う。
「橋塚、俺はお前に……なりたかった」
 それが俺の、本心だったのだろうか。

 

 朝起きると、目の前に転がる何本ものビール缶と枝豆の皮が始めに目に入り、俺はすぐに時計を確認した。六時十五分。染み付いた習慣は酒をもってしても抜けないようで、寝坊しなかったことに安堵し、同時に落胆のため息をつく。缶と皮を片づけさっさと身支度を整えると、ふと昨日の葉書が目に入った。もう一度時計を確認する。七時二分だった。俺はネクタイを締め直し、鞄を持って小走りに外に出る。車に乗り込みエンジンをかけて発車し、いつもと少しも変わらない景色を横目に会社とは逆方向にハンドルをきった。それはただの思いつきだった。なんとなく橋塚が懐かしくなり、一瞬でもいいから彼のそばに行きたかったのだ。
 車を降りて鍵を閉め、三回だけ開けたことのある重い扉に手をかける。小さいけれど厳かなこの場所が、俺は嫌いじゃなかった。
「失礼します……」
 月曜日の早朝だから誰もいないかと思ったが、一人二人信者と思われる人がチャーチベンチに座って祈っている。俺は一番後ろの席に腰掛け、前にある十字架を見つめた。
 ――それは、不思議な感覚だった。今まで感じたことのない光を十字架から感じ、俺は母の腕の中に包まれているような懐かしさと安心感に包まれた。ゆっくりと、俺の中の何かが頭をもたげ、気づいたら頬に生温かい液体が流れるのを感じていた。どうしてかはわからない。だが俺は確信めいた気持ちで思った。これが道だ、と。縋るものがない砂漠の中で這っていた俺が、やっと指針になるものを見つけたんだ、と。
「橋塚……わかったよ」
 嗚咽の中で途切れ途切れに細い声がこぼれる。
 “俺は教会行ってるからさ! 疲れなんて吹っ飛ぶぜ!”
「こういうことなんだな」
 全部洗い流してくれるんだ。その暖かさで包み込んでくれるんだ。俺をどん底からも引っ張り上げてくれるんだ。
 ふう、と息を吐いた。涙と共に心の中に巣食っていた重みが軽くなっていく。不意に肩にふわりとした感触を感じ、俺は後ろを振り返った。
「おはようございます」
 振り返った先にはにこやかな老人が立っていた。いや、老人と言うにはまだ若いかもしれない。短い白髪と白い肌が健康的な輝きを放っている。
「あ、おはようございます」
「多田さんですよね。お久しぶりです」
 驚いて相手の顔をよく見てみると、なんとなく見覚えがある気がしてきた。そうだ、追悼行事の時にいつもいた人だ。
「牧師の松田です」
 その優しい微笑みは、見たこともない聖母マリアを連想させる。声は耳に心地よい低さで、心が凪いでいく。
「お久しぶりです! あの突然なんですが俺……」
 橋塚が通った教会。この牧師さんのいるこの場所。はい、と首を傾げる牧師さんに俺は迷わずに言った。
「クリスチャンになりたいんです」
 これが俺の指針だ。橋塚、俺は見つけたんだ。お前になる道を。

「お母さん、ちょっと話があるんだけど、いい?」
 バイト前の準備をする母に聞く。準備と言っても軽い化粧と着替えくらいだ。先に出勤の準備ができた私は新品のスーツを汚さないように椅子から動かないようにしていた。
「んー、何?」
 母は軽くアイシャドーをつけアイラインを引きながら答える。
 前から考えていたことだった。昔疑問を持たなかったことに疑問を持ち、素直な気持ちで祈れなくなってしまった今、この選択が一番正しいと思う。父にはちょっと申し訳ないが、きっと父ならばそういうこともあるさと笑ってくれるだろう。
「私、もう教会行かない」
「あー、そう」
「え?」
 母の答えに拍子抜けし、思わず聞き返す。
「あの、クリスチャンやめるから」
「うん。いいんじゃない?」
 なんて軽いんだ。何回も迷って決めた結果に、こんなに軽く返されるとは。
「みなみの好きなようにすればいいのよ。クリスチャンでもそうじゃなくても、みなみはみなみなんだから」
 そっか。母の言葉に頷く。私が変わるわけじゃないのかも。私という人間とキリスト教の進む道が分かれていっただけなのかもしれない。私が急にハンドルをきったわけじゃなくて、ずっと前から少しずつずれていたのかも。
「よし! じゃあせっかく日曜日予定なくなったことだし、来週の土日は一泊二日で海に行こー!」
「は?」
「ね、予定空けといてね」
 急にハイテンションになった母に呆れながら、なんだか笑いが込み上げてきてスーツの皺も気にせずに笑い転げた。
 キリスト教を信じていたから今の私がある。信仰心がなくなってもきっと私の中に根付いてるものがあり、ふとした時に懐かしくなるのだろう。それは少し恥ずかしくて、酸っぱい思い出かもしれないけれど、確実に私の一部なのだ。
 今日一つの皮が剥け、私は自由になる。




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